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徳川忠長

とくがわただなが

徳川忠長とは、江戸時代前期の親藩大名。3代将軍・徳川家光の弟に当たり、「駿河大納言」の通称でも知られる。(1606年-1634年)
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概要

江戸時代前期の親藩大名(徳川家の近親が封ぜられた藩を指す)で、存命中は甲府藩主、駿府藩主を歴任。徳川家康徳川秀忠三男徳川家光にそれぞれあたる。幼名は「国千代(くにちよ)」または「国松(くにまつ)


幼少時は利発で容姿や才気にも優れ、兄・竹千代(家光)を差し置いて両親の寵愛も受けていた事から、将軍後継の最有力とも目された事もあった。

しかし、祖父・家康の意向によってやがて兄・家光の後継が確立すると、自身は将軍の重臣として仕える義務を課せられるのだが、幼き頃より両親や家臣達に持てはやされ続けた事が大きく災いしてしまう事になり、自身の立場への自覚に対する欠如から数々の失態を犯し、次第に家光だけでなく父・秀忠とも折り合いが悪くなり、乱行までも行っていく事態となる。


生涯

幼年期

慶長11年(1606年)、江戸幕府第2代征夷大将軍・徳川秀忠の三男(本来、同母兄・家光の他にも異母兄として長丸がいたが、忠長誕生の時点で早逝していた)として江戸城西の丸にて生まれる。誕生日については諸説あるが、現在では6月1日が有力と考えられている。


・秀忠や崇源院)は、病弱吃音があった竹千代(のちの家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたとされ、それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったと伝わる。

この争いは後に、竹千代乳母のお福(春日局)による祖父・家康への直訴を経て、組織安定のため長幼の序を重んじた家康の裁断により、竹千代が後継として明確に定められた事で決着を見た。


なお、母・江による国千代への偏愛ぶり(と、竹千代への粗略な扱い)、そしてお福による直訴と家康の裁定など、家光と忠長の間で起こった将軍後継問題にまつわる様々な逸話については、あくまで巷説の域を出ないものであり、同時代の信頼できる一次史料による裏付けがなされた話でないという事に留意されたい。

同様に広く伝わっている逸話の一つとして、乳母であるお福が竹千代を養育したのに対し、江は自らの手元で国千代を育てたとされるというものがあるが、こちらも実際には国千代にも乳母として朝倉局土井利勝朝倉宣正)が附けられていたという。

ただし、竹千代が後継者に決まった直後、家康は江に対し国千代に関する扱いについての訓戒状を与えており、その内容は「国千代は利発に見えるが、だからといって褒めそやしてばかりいれば我儘に育ってしまう。我儘は身を亡ぼす要因になり得るので、気を付けて教育せよ」とされ、後述の江の死後以降の忠長の様子を見ても、江から過度な愛情を向けられて育った可能性は高いと言えなくもない。


慶長年間の末頃には、当時の薩摩藩主・島津家久(忠恒)より国千代を養子に迎え入れたいとの打診があったという。

この養子縁組打診の背景には、当時家久に嫡子がいなかった事に加え、その嫡子を設けるべき正室・亀寿(伯父・島津義久の娘)とも深刻な不仲であった事などが大きく関係している。

しかし、元和2年(1616年)の4月17日、祖父・家康が死去。これが原因で間近に迫っていた兄・竹千代の元服が延期となってしまったのを機に、再び徳川家家臣達の間で国千代が将軍職を後継する可能性が噂される様になっていく。

元和2年あるいは4年(1616年/1618年)の9月、甲府23万8000石(後に信濃(現在の長野県)の小諸藩5万石も併合する形で28万8000石に加増)を拝領し、甲府藩主となる。とはいえ、元服前かつ幼少の国千代が実際に領国へ入部する事はなく、実際の政務は朝倉宣正や、郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団や代官衆により行われた。


しかし、そうした立場の向上とは裏腹に、次第に国千代には問題ある振る舞いが目立つ様になっていく。

元和4年(1618年10月9日、国千代は父を喜ばせるべく、自らが撃ち取ったで作られた汁物を父・秀忠の膳に供して最初は喜ばせたものの、その鴨が西之御丸の堀で撃ち取ったものである事を知らされるや、秀忠は一転して怒りを露わにし、を投げ捨ててその場を退出するに至っている。

国千代を可愛がっていた秀忠をしてここまでの反応を示したその背景には、江戸城の西の丸が将軍後継の住まう場と定められていた事、そして将軍家臣たるべき立場の国千代が西の丸に鉄砲を撃ち込む事が、悪意は無くともいずれは将軍となる竹千代への反逆に等しい振る舞いへと繋がる事等が挙げられる。秀忠からしてみれば、表向きは一応竹千代が国千代よりも立場が上になったにも拘らず、国千代が兄を軽んじている様に見えたのだろう。

この時は幼年であった事もあり目立った処分が下される事はなかったものの、こうした自身の立場に対する自覚の欠如は、やがて元服後の様々な問題にも繋がっていく事となる。


駿河大納言

元和6年(1620年9月に元服し、金地院崇伝の選定により諱を忠長とする。

当初は父・秀忠より松平姓を与えられており、立場上は庶子に準じる扱いであった。

徳川姓が許されていた叔父尾張藩徳川義直紀州藩徳川頼宣には、宗家に後継が絶えた際に将軍職を継承することが定められていたが、この時点の忠長はそうした立場からも除外されていた。


元和9年(1623年)7月、官位の面においても家光の将軍宣下に際し権中納言に任官され(ちなみに同年11月7日織田信長の曾孫娘・昌子松孝院織田信雄の四男・信良の娘)と婚姻。更に寛永元年(1624年7月には小諸藩領に代わって駿河、そして当時掛川藩領であった遠江の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を知行するに至った。

55万石の知行は所謂御三家にも匹敵する規模であり、また駿府は徳川家にとっても政治的にも歴史的にも重要な意味合いを持つ地でもあった事から、将軍後継から外れたとはいえ格別の待遇であった事が窺える。

だが、既に破格の厚遇を受けていたにも拘らず、現状に満足のいかなかった忠長は、駿河・遠江が加増された折、大御所となっていた父・秀忠に対し途方もない申し出に及ぶ。

曰く「忠長は将軍の実弟であるので駿府55万石では満足できない、ついては100万石を賜るか、自分を大坂城の城主にして欲しい」との事であったが、この馬鹿げているとしか言いようのない嘆願は聞き容れられる訳も無く、呆れた秀忠からはこの一件を機に愛想を尽かされるようになっていく。

また、兄・家光にしても、かつて祖父・家康が敵対した豊臣秀吉秀頼の本拠であった大坂城を欲する忠長に対し、謀叛の意思があるのではないかとの疑いを抱かせるには十分過ぎる出来事であり、彼等に仕える幕府側もまた、持てはやされ続けていた忠長の姿を見て「まるで将軍が二人いるかの様だ」と評し、自身の気付かぬ間に周囲からの不信感を買ってしまう事になる。

また一方で、この頃の忠長はある時、理由も無く小姓に斬りかかる手打ち事件を起こしており、この時に斬られた小姓の命に別状は無かったが、これが忠長の人生で初となる手打ち事件となり、将軍から大御所として家光を補佐していた秀忠に知られた事で叱責されている。


寛永3年(1626年)には権大納言に昇進、後水尾天皇の二条城行幸の上洛にも随行している。こちらも御三家のうち尾張家・紀州家に準じる扱いであった。駿府を領し尾張家・紀州家と同格の権大納言に任官された事で、この頃より隣国の諸大名等からは「駿河大納言」と称され、次第に持て囃されるようにもなっていく。(当時の水戸家は紀州家の分家扱いで、任官も権中納言まで。つまり、まだ御三家ではなかった。)

だが、秀忠と家光が上洛の折に、忠長は大井川に船橋を掛ける等の配慮を見せようとするのだが、大井川への架橋は幕府の防衛上の問題から祖父・家康の代より厳禁とされており、却って家光の不興を買う憂き目に遭ってしまい、父・秀忠からも叱責される事になる。

また、上洛の折に最大の庇護者であった母・江が危篤を迎えてしまう事態となり、知らせを聞いた忠長は馬を走らせて急いで江戸に戻ったが、間に合う事無く江は死去。その後の葬儀は忠長が務める事になるのだが、母・江を喪った忠長の精神的な打撃は大きかったらしく、この頃より過度な飲酒に耽る傾向が目立っていく。


寛永5年(1628年)の際には武家屋敷の建設を理由に、駿府に存在していたとある寺を移転させるのだが、その寺は祖父・家康や今川義元の兄・氏輝にも安堵されていた由緒正しい歴史ある寺であった為、またしても家康の威光を軽んじる行いに出てしまった結果、兄・家光と父・秀忠の双方の激怒を買い、叱責されている。


これらのやらかしに関しては、兄・家光や父・秀忠、幕府等に事前に相談・確認をすれば本来ならば回避出来るはずの事であったのだが、「将軍家の人間」の威光を笠に着る様になっていた忠長は、それらを行う事無く独善的な振る舞いを繰り返す事になっている。


乱行の数々と父兄との確執

その後も忠長の行状は改まるどころか、過度な飲酒により奇行を繰り返す様になる等、深刻さを増していく一方となっていた。

寛永6年(1629年)には江戸や駿府で辻斬りが出没していた事で、兄・家光から辻斬りの首謀者が忠長である可能性を疑われ、家光は「万一辻斬りを発見したら、生かして捕らえよ」という命令を家臣達に下している。


寛永7年(1630年)には領内の賤機山の浅間神社付近にてやはり厳禁とされていた猿狩りを強行。更にその帰途には自身の乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を取るに足らない理由で脇差を使って刺し、殺される事を恐れて逃げた担ぎ手を追い回した末、殺害に及んでもいる。

忠長が一家臣でかつ、他の場所での出来事であったならば、ここまで大きく問題視される事は無かったかもしれないが、賤機山で猿は神獣扱いされている上に、浅間神社は亡き祖父・家康が今川義元の手で元服した場所であるという二重の意味での聖地となっており、その場所で徳川家の血を引く忠長が蛮行に及ぶのは到底許されない物で、そもそも神社付近で生き物の殺生を行う事自体、現代の観念から見ても論外である。

当然、浅間神社の神主からは止めるよう懇願されていたのだが、当の忠長は自らが駿府の領主である事や「猿は害獣でしかない」という屁理屈で止めようとせず、最終的に1240匹もの猿を殺した蛮行を聞いた家光は激怒し、またしても忠長は叱責される事になった。


翌寛永8年(1631年)になると、またしても手打ち事件を起こす様になり、家臣や御伽の坊主に対しても様々な危害を加えるようになる。

この頃になるとこうした所業の数々は既に他の大名家の知るところともなっており、時の小倉藩主・細川忠利はこれらの行為を酒乱ではなく、発狂によるものだと推察している。当然、こうなれば大御所である父・秀忠に知られてしまうのも時間の問題で、更に時期の悪い事にこの頃の秀忠は体調を大きく崩す事になっていた為、忠長の蛮行の数々を知った秀忠は激怒。体調を更に崩す事になった彼により忠長は勘当を言い渡されてしまい、兄・家光からも「これ以上の乱行を繰り返せば叔父・忠輝殿と同じく島流しを言い渡される事になる」と、実質的な最終警告を受ける事となった。

だが、その後も忠長の行状は改まないどころか、むしろ悪化の一途を辿り、女中のいた部屋で刀を振り回して彼女達を斬りつけたり、家臣である内藤政吉に対し「成敗してやる」と怒鳴り散らしながら鎧を着て追い回した挙句、少女を殺害してその遺体を唐犬に食わせる等、蛮行に次ぐ蛮行を繰り返し、忠長の理不尽な仕打ちを恐れて側近が寄り付かなくなった結果、幼い2人の子供のみが仕える有様となり、最早乱行の歯止めが利かない状態となっていた。

そして同年の暮れ、家臣の小浜七之助と共に鷹狩りに出かけた際に、「雪が原因で薪に火を点けられなかった」というつまらない理由から七之助を手打ちにした事を、彼の父親が幕府に訴え出たのが決定打となり、堪忍袋の緒が切れた家光により、忠長は甲府への蟄居を命じられる事となった。前述の通り、秀忠からは一連の不行状を理由に勘当を申し付けられる等から見放されたも同然の状態で、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが、そんな事をすれば幕府への信頼に関わる大問題となってしまう為、当然許される事もなかった。


不遇の最期

叔父・徳川頼宣らの働きかけや、家光の計らいなどもあって一旦は駿府へ戻る事を許された忠長であったが、その後も寛永9年(1632年)に秀忠が危篤の折に乞うた江戸入りまでは許されなかった。家光、もしくは秀忠自身の意向によるものとされる。

同年3月に秀忠が薨去するとその立場もますます厳しいものとなり、蟄居の身ながら無断で甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院を建立した件、それに熊本藩主・加藤忠広(清正の嫡子)改易の際に風説を流布した件などを理由に改易とされ、半年余り後の10月20日に高崎藩主・安藤重長に預けられる形で当地への逼塞処分が下される。また、その際に朝倉宣正・鳥居成次ら附家老も、連座して改易に処された。


そして逼塞から1年余りが経った寛永10年12月6日1634年1月5日)、幕府命令により高崎の願行山大信寺にて自害、28年の生涯に幕を閉じた。実子の存在は史料上では確認されておらず、忠長の死により駿府徳川家も一代限りで断絶となった(一説には松平長七郎なる子がいたとも伝わっているが、生母や生没年の矛盾などから否定的な見方が強い)。

は43回忌にあたる延宝3年(1675年)に、自害の場となった願行山大信寺に建立された。現在では高崎市指定史跡に指定されている他、硯箱や自害に用いた短刀、それに自筆手紙などが位牌とともに保存されている。


秀忠の薨去後には乱行の数々などを理由に改易・逼塞に処され、遂には自害に追い込まれるという運命を辿った。


評価

忠長にとって最も不運だったのは江戸幕府の成立と「元和偃武」(大坂の陣終結に伴う、戦乱状態の終結と幕府による全国支配の確立)により、それまでのような己の才覚こそがものを言う「実力本位の時代」から、長幼の序などを重んじる「秩序第一の時代」へと移行した事であろう。

父・秀忠がそうであったように、世が世であれば兄を差し置いて嫡男となり得ていたかも知れない忠長であったが、各種法令の発布と順守によって社会秩序を確立させ、こうした時代の変化を積極的に推し進めたのは、皮肉にも忠長を可愛がっていた父・秀忠その人だったのである。

また兄・家光が将軍後継の座を確立し、また父・秀忠も元和年間に入って親政を始めるようになる等、両人やその周辺の者達もそれぞれの立場の変化に伴いスタンスを変化させていったが、忠長はそうした「立場の変化」に最後まで順応できず、その事もまた兄や父との不仲、そして自身の乱行を招く一因となったと言える。


同母兄・家光とは結果的に生涯に亘って反目しあう事となったが、忠長に対する家光の対応は意外にもそこまで険悪なものではなかったようである。

確かに忠長の不行状ぶりを知らされる度に怒りや不快感を示してはいたものの、秀忠が忠長に対して即座に勘当に及んだのに対し、最終的な処断を父より委ねられた家光は、「2人しかいない兄弟だから」と土井利勝らを遣わして更生を促したり、甲府への蟄居が命じられた後も一旦は駿府への帰還を認めたりもする等、忠長の行状が改まるのにギリギリのところまで期待していた事が窺える。

また、異母弟に当たる保科正之(後の会津松平家初代)に対しては殊の外可愛がっていたようで(この点は兄・家光も同じであった)、両者が対面した折には忠長が葵紋の入った家康の遺品を与えたり、松平への復姓を薦めたりしたと「会津松平家譜」には記されている。


親族・家臣


関連タグ

  • 織田信勝・津田信澄:忠長の大伯父(江の生母・お市の兄弟)とその息子。親子共々後継争いに巻き込まれ信勝は兄・信長に、信澄は従兄弟・信孝により非業の死を遂げるなど両者の生涯には忠長と近似した部分も見られる。
  • 柳沢吉保:甥の5代将軍徳川綱吉の権臣。父の安忠が忠長の家臣であった。
  • 室賀正武:弟の屋代秀正が忠長の家臣であった。
  • 長七郎江戸日記日本テレビ系列で放送された、里見浩太朗主演の時代劇シリーズ。上記の息子にまつわる伝承を元に、同作の主役・松平長七郎長頼は忠長の遺児として設定されている。
  • シグルイ:『駿河城御前試合』を原作とした漫画。忠長が御前試合を開催し、多くの剣士が犠牲となった。

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