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松平信康

まつだいらのぶやす

戦国時代の武将。松平清康の次男・源次郎信康と徳川家康の長男・岡崎三郎信康がいる。
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戦国時代の人物。徳川家康の叔父・源次郎信康と長男・岡崎三郎信康がいる。


源次郎信康の概要編集

松平清康の次男で広忠の異母弟。別名は信家。1540年に尾張織田信秀が安祥城へ攻めて来たときに、広忠の命で安祥城主・松平長家へ加勢したが長家と共に討死した。生年は不明だが享年は15歳ぐらいとされる。


岡崎三郎信康の概要編集

生涯編集

松平家が今川家の傘下にいた永禄2年(1559年)に松平元康(徳川家康)築山殿との間に生まれた。幼名は父と同じ竹千代。

桶狭間の戦い後の人質交換で岡崎へ移った。清洲同盟締結後、織田信長の長女の徳姫結婚し、元服時に信長から諱の一字を貰い信康と名乗る。

家康が浜松に移ってから岡崎城を任せられ祖父・広忠と同じ「岡崎三郎」を称した。武田信玄勝頼父子との戦いなどで多くの功績を上げる。

しかし、家康との間に何らかの問題(性格的な問題らしい)があり、1579年に信康は岡崎城を追放され遠江二俣城に謹慎させられる。その後、家康は信康の処分について信康の舅である信長に相談し、「思い通りにせよ」と言質を得たうえで、(表向きは「武田家との密通」という理由で)築山殿を殺害し、信康を自害させた。享年21歳。介錯を行ったのは、服部正成か天方道綱とされる。信康切腹時点の家康は北条氏政の要請を受け、勝頼と対峙するため、駿河に出陣中であり、「自分が出陣中に信康を切腹させよ」という命令が出ていたと思われる。


長女の登久姫小笠原秀政貞慶の長男)に嫁ぎ忠脩や忠真らを産み、次女の熊姫(妙光院)は本多忠政忠勝の長男)にそれぞれ嫁ぎ忠刻らを産み両者とも多くの子宝に恵まれた。ちなみに蜂須賀正勝の曾孫の忠英と正室の繁姫は共に秀政と登久姫の孫だったように信康の孫や曾孫の世代では近親結婚も多く、第79代内閣総理大臣細川護煕池田輝政(正室は信康の異母妹の督姫)の子孫である岡山池田家出身の父方祖母から信康の娘二人の血を受け継いでいる。

徳姫は娘達を家康のもとに残し、長兄・織田信忠のち次兄・織田信雄に保護され、江戸時代になると清洲藩主になった義弟の松平忠吉から所領を分け与えられたが忠吉の死後は京都で隠棲し伊達政宗と同じ1636年に逝去した。


人物像編集

信康は、死後に父・家康が嘆くほど有能な武将だったようで、特に武人としての器量は兄弟の中で最も優れていたとされる。

また、異母弟・於義丸(後の結城秀康)が自分の子であることに疑いをもっていた父・家康に於義丸を会わせ、渋る家康に認知をするよう迫った逸話が残されている。

ただし、年が近い大久保彦左衛門(忠教)の三河物語によると「これほどの殿はいない」と言わしめている反面、戦・乗馬鷹狩りにばかり関心が強かったというので、武以外の才能は乏しかった疑いがあり、次弟の徳川秀忠とは完全に真逆なタイプだった可能性もある。

さらに、信康の器量が嫡男の信忠に勝っていることを恐れた信長が信康の処断を家康に迫ったという俗説もあるが、政略などを加味すれば現在では信忠の方が信康より総合的には器量が上とされている。


妻である徳姫との仲も円満というわけにはいかなかったようで、何かと喧嘩が絶えず、家康や瀬名はおろか舅である信長すらも一時期頭を悩ませていたほどである。



近年では


  • 信康の死の前後に岡崎城に配属されていた家臣の多くが大小の罰を受けていること
  • 岡崎城の家臣団と浜松城の家臣団の深刻な対立があり、仮に信康が望まなかったとしても担ぎ上げられる可能性があったこと

などもあり徳川家が割れる前に家康があえて処断したという説がある。


性格は、弟達の中でも家康に特に嫌われた松平忠輝に似ていたらしい。

いずれにせよ、問題は少なからずあるにせよ期待を置いていた長男を実の父親が殺害せねばならないという、当時としても過酷な行動であったため、簡単に割り切れるような一面的な見方はするべきではない。


フィクションにおける松平信康(岡崎三郎)編集

NHK大河ドラマ編集

なお、宅麻氏は4年後の『独眼竜政宗』では甥の徳川家光を演じている。

家康と瀬名の嫡男として幼年期から登場。視点が井伊直虎から井伊直政に移り変わってからは遠縁であることも手伝って、直政が浜松と岡崎の使いに立つこととなる。

聡明かつ有能で視野も広く、前線で功績を立てる浜松に対して冷遇されがちな岡崎側の弁護をしつつ、同時に父の立場もよく理解しているため、家康からも「いずれ後を譲ったら直政と良い主従になる」と将来を期待されていたが、信長の好意(という名目の取り込み)を二度断ったがために警戒心を抱かれてしまい・・。

史実通り、幼さ故か徳姫との喧嘩は絶えず、第13回ではまんじゅうを巡って喧嘩していた。


第15回では引間(浜松)城に本拠を移した家康に代わり、岡崎城の城主となる。

続く第17回では立派な青年の姿で登場。武田軍の侵攻に対して後詰を任される事になる。

第19回では、義父・家康に悪い虫が付くことを心配する妻・五徳をよそに「父上に限ってそのようなことはなかろう」と笑いながら盛大なフラグを立てていた。そして、お手付きの件がバレた際には「父上!見損ないましたぞ!」と案の定失望しブチギレていた。

第20回では大岡弥四郎らの起こした反乱を察知し、浜松から救援に来た忠勝らと共に鎮圧。齟齬、彼らが「沈む船(徳川家)よりもそうでない船(武田家)に乗った方が良い」という反乱への本心を直に聞き、五徳からも「処断すべき」と論されている。


第22回では、父・家康から「儂よりも将としての才がある。」と絶賛されるものの、武田との戦の中で徐々に精神をすり減らしていくことになった

その遠因の1つが、設楽原の戦いで織田軍が行った鉄砲隊による武田軍の一方的な蹂躙となっている。


第23回では家康の撤退指示に従わなかったり、信長の命令に黙々と従う家康に「臆病だ」と罵声を浴びせたり、更には鷹狩の途中で通りすがった僧侶を斬殺したりと、次第に歯止めが効かなくなりつつある。なお、歯止めが利かなくなり、僧侶を斬殺してしまったことは相当悔いていたようで、瀬名に「何と言って謝ればよいのでしょうか」「みんなが強くあれというから強くなりましたが、自分が怖い」と涙ながらに相談している。


第24回では瀬名の思い描く「慈愛の国」に賛同。父や妻からも理解を得られたが、勝頼の離反により水泡に帰してしまう。


第25回で起きた所謂「築山事件」においては、瀬名と共にすべての責任を取り自害しようとするが

2人を生かしたいと願う家康により逃亡計画が実行に移される。しかし、瀬名の逃亡を確認してから逃亡するといい

中々動こうとしなかった。その後、半蔵からの(嘘の)報告を聞き、瀬名が自害した事を確信。

近くにいた親吉の小太刀を奪い切腹、そして半蔵の介錯を経て死去した。


ゲーム編集

群雄伝から登場。武力はあるが政治や智謀はそこそこという傾向は同じ。当初は徳川信康名義で登場していたが天翔記から松平信康名義で登場している。


主人公として選択すると、彼の死因となった一連の事件を追体験可能で選択肢次第で史実通りの結末の他、結果的に徳川家が織田家に従属する展開や切腹の寸でで逃亡し「世良田次郎三郎」を名乗って第二の人生を始める展開が用意されている。


漫画編集

クールな性格の少年

超が着くほどヤンデレな母・築山殿を厭っており、千鳥が築山殿に襲撃された際には部下を向かわせて拘束させ、「出来ることなら我が一族の恥を見てしまった貴女も口封じのために消したいくらいだ」と呟いていた。


関連タグ編集

松平清康 松平広忠


徳川家康 築山殿

千姫…姪。弟・秀忠の長女。豊臣秀頼の死後、信康の外孫に当たる本多忠刻と再婚した。ちなみに忠刻の妹の亀姫は信康の外孫に当たる小笠原忠脩の正室だったが忠脩が大坂夏の陣で父・秀政と共に討死したため忠脩の弟の忠真と再婚している。

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