「天下のご意見番」とあだ名された安土桃山時代〜江戸時代前期の武将。
プロフィール
概要
松平清康・広忠・家康の松平(徳川)三代に仕えた大久保忠員の八男。
長篠の戦いまたは遠江国犬居城攻略戦で兄たちに従い初陣を飾る。第二次高天神城の戦いで勇将・岡部元信を討ち名を馳せる。その後も大久保党の一員として武勇を見せ、真田昌幸との第一次上田城攻防戦では味方が崩れ立つ中、勇戦しさらに武名を上げている。武勇のみならず石川数正出奔事件の際には、忠世の代理として小諸城に入るなど信濃統治にも関与した。
豊臣秀吉の天下統一後、かつての後北条氏の本城だった小田原城主になった長兄・忠世のち甥・忠隣から相模国で3000石を与えられた。関ヶ原の戦いでは秀忠が率いる別動隊に組み込まれ中山道を進み、上田にて槍奉行として再び昌幸と相見えた。1613年、駿河国沼津藩主だった次兄・忠佐が逝去した際、後任の沼津藩主就任の話を持ちかけられたが辞退し、沼津藩は無嗣断絶で改易された。翌1614年、大久保家当主の忠隣が大久保長安事件で失脚した際に連座され改易をされたが、家康に再び召し出され三河国額田に領地を与えられ直参旗本となる。大坂の陣では鑓奉行として家康本陣に近侍し戦った。
1622年頃から後述の『三河物語』を書き上げ、のち常陸国鹿島に移住。最後は大甥・大久保忠職(忠隣の子)が大名に復帰するのを見届けたかのように没した。享年80歳。
三河物語
元々は彦左衛門が子孫に対し武士の生き方を示した家訓書として書いたものであり門外不出を謳っていた。しかし、(完全版ではないが)写本が作られ一般にも出回り人気を博した。
成立したのは寛永3年(1626年)から同9年(1632年)頃とされる。
諸記録や伝聞を元に徳川(松平)氏と大久保氏のルーツに歴史や功績を記述した上・中巻、彦左衛門自身による見聞や事蹟について述べた下巻の計3巻からなる。
彦左衛門自身の不満や意見などが織り混ぜられており今川義元・氏真父子に本多正信・本多正純父子への記述が悪意に満ちていることなどから老人の愚痴と切り捨てられることもあった。このため同時代の資料としては松平家忠(※1)が残した『家忠日記』や松平忠明(※2)による『当代記』に比べ客観性は落ちるとされる。以前は上田城攻防戦など参考になる記述も多く戦国時代末期~江戸時代前期の資料としての価値は高いとされ、家康を描く小説や映画・ドラマにも影響を与え山岡荘八の小説『徳川家康』もその影響を受けていた。
しかし、昭和~平成~令和に至り新たな資料が発掘されたこともあり2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』の歴史考証を担当する平山優氏から酷評されている。
※1:深溝松平家当主。伏見城で鳥居元忠と共に討死した。
※2:奥平信昌の四男。徳川家康の養子。大坂の陣後、大坂城主などを歴任した。
フィクションにおける大久保彦左衛門
代々の将軍に憚らず直言し、また浪人を保護したり就職を斡旋するなど義侠の士としても知られた人物であった。このため庶民から人気があり特に講談においては魚屋の一心太助とのコンビで活躍している。
令和の現在でこそ意外に思えるが昭和時代末期までは誰でも知っていると言ってもいい人物であった。しかし、平成以降は時代劇の衰退もあり、信長の野望などのゲームとかにもあまり登場しなかったこともあり知名度はかなり下がった。実はNHK大河ドラマに登場したことは一度もない。
信長の野望
天翔記に出たきりだったが大志以降、レギュラーとして登場するようになった。天翔記では戦才以外は壊滅的な猪武者だったが、再登場してからはオールマイティに近いスペックを持つ。武勇は服部正成・渡辺守綱の両半蔵に匹敵。さらに武勇一辺倒ではなく統率や智謀も高めな上に、政治もこなせるため大久保党の中では最も使い勝手が良いため出番は多い。
関連タグ
フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト−銀河英雄伝説の登場人物。原作者の田中芳樹自身が、彼の本編終了後の人生について後書きでなぞらえている。