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生没年

1540?〜1575年。

概要

徳川家康配下の武将・奥平信昌に仕えていた足軽。諱は勝商
現在は、彼に関する逸話には後世の創作が大幅に盛られているという説が有力。

武田信玄の没後、奥平は武田を離反し徳川に臣従。
信玄の嫡男・武田勝頼は織田・徳川領へと快進撃を再開。「強すぎたる大将」とまで呼ばれた勝頼率いる軍勢により織田・徳川連合軍は連戦連敗。勝頼は堅城・高天神城をも攻略し、奥平の支配する長篠城(現愛知県)を包囲した。
天正3年(1575年)5月8日、500の奥平軍が立てこもる長篠城に対し、武田軍は1万5千。奥平軍は、武田軍との圧倒的な兵站の差によって敗色が濃く、実際に武田軍に圧倒されていた。そのため、家康が治める岡崎城援軍を要請するために、強右衛門が使者として赴くことになった。

14日、強右衛門は武田軍の包囲をすり抜け、翌15日午後に岡崎城に到着。家康は信昌の援軍要請を承諾した。
強右衛門はこのことを味方に伝えようと戻ったが、武田軍に見つかり捕縛された(強右衛門は長篠城からでも見える雁峰山で狼煙を上げて脱出を報せ、戻って来た時も狼煙を上げており、それに沸き立つ奥平軍に不審に思った武田軍が警戒を強めていた)。
彼が家康の間者だと気づいた武田軍は、強右衛門を助命する代わりに長篠城に向かって「徳川の援軍は来ない」と叫ぶように命じ、強右衛門はこの命令を表面上承諾した。しかし、強右衛門は武田軍との約束を破り、徳川の援軍が来る旨を奥平軍に伝えた。

「城を堅固に保ち給え。三日の内に御運は開かれまする。」

これにより、(勝頼の立場からすれば、味方の安全を脅かす敵の間者を処刑することは当然であるため、)勝頼は強右衛門を処刑した。

奥平軍は、徳川本隊の援軍が到着するまでの間戦った。そして強右衛門の死から2日後、織田・徳川連合軍の援軍は到着した。こうして信昌は首の皮一枚繋がり、長篠の戦いが勃発した。
 
子孫は奥平家の家老として遇され、地元では彼を偲ぶ催しが開かれている。

注意点

旧説では、「武田軍」の落合佐平次が磔にされた強右衛門の姿を絵に描き、旗指物に使ったと言われていた。しかし、近年の研究によって佐平次はこの時点では「(家康本隊の)徳川軍」に属していることが判明したため(佐平次が強右衛門の最後を直接見れるはずがなく)、この説は否定されている。
この様に、前述した通り強右衛門に関する逸話は後世の創作が大幅に盛られているため、彼について一般的に言われていることには創作が入っているということを知っていた方がよい。

創作

戦国無双シリーズ

初代戦国無双では、最強データの新武将として登録されている。
一般武将としての登場は戦国無双4からだった。


殿といっしょ

坊主頭の青年。とにかく話を聞かないうっかり者で、武田方のあらゆる調略にすぐさま引っかかるおバカさん。

信長の忍び


「へへ…そうだなあ…あえて言うなら『悔いは無え』だな」
 
ド根性武将・信昌に仕える俊足の足軽。前髪がちょっと赤いのが特徴。主人公千鳥と共に徳川方に使いに向かう。
その壮絶な死は武田方にも伝わっており、6巻収録の西尾維新によるノベライズでも「そのような輩が居れば見るも無残な死を与えてやろうぞ、すなわち鳥居強衛門の如く」と語られている(ぶっちゃけた話、このセリフを言わせたかったがためにこのノベライズのみ12巻の時系列の話とやたら未来のエピソードになっている)。


ガールズ&パンツァー リボンの武者


主人公の鶴姫しずかが「すね様」と呼ぶほど敬愛しており、例の磔の絵姿をチームの旗印にしようと提案したが、松風鈴に即却下された。

大河ドラマどうする家康

演者:岡崎体育

関連項目

戦国時代 足軽
安田顕:水曜どうでしょうにて鳥居強右衛門を演じた。なお、上記『どうする家康』には音尾琢真鳥居元忠を演じている。

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