概要
本名:ウィリアム・アダムス(William Adams)。
イングランド(現イギリス)出身の航海士であり、後に江戸幕府初代将軍・徳川家康に仕えたとされる。「三浦按針(みうらあんじん)」は旗本となった際に家康から与えられた名で、姓の「三浦」は領地のある三浦半島に由来し、名の「按針」には水先案内人としての意味が含まれている。
生涯
1564年9月24日、イングランド南東部ケント州で船員の子として生まれる。
早くに父を亡くし、12歳でロンドンに移り住み船大工の弟子として造船技術を学ぶも、次第にその興味から航海士を志すようになり、1588年に海軍に入隊。同年に起こったアルマダの海戦では貨物補給船の船長として参加した。翌1589年には結婚し、妻との間に2児を儲ける。
後に軍を離れ、バーバリー商会ロンドン会社に入社。海軍での航海のノウハウから航海士・船長として務め、北方航路やアフリカへの航海で多忙な日々を送ったという。
その中でオランダ人の船員と交流を深めたウィリアムは「ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探している」という話を聞き、1598年にその船団の水先案内人として参加。しかし、マゼラン海峡を通過して太平洋を横断する中で敵国船や疫病によって船団は壊滅状態になり、1600年に日本の豊後(大分)臼杵に漂着した時は、リーフデ号に乗ったウィリアムたち24人しか生き残らなかった。
時は折りしも関ヶ原の戦いの半年前で、日本国内は不穏な情勢が続いていた。現地領主はウィリアムたちを長崎奉行に報告し、積んでいた武器や兵器の存在を理由に拘束。さらにカトリックであるイエズス会宣教師がプロテスタント国である彼らを海賊であるから処刑するよう要求した。
当初は大阪の豊臣秀頼に判断が仰がれたが、五大老首座の徳川家康に処分が任され、重病の船長の代理としてウィリアムとヤン・ヨーステンが家康に謁見した。ウィリアムは自分達の目的や国際情勢、キリスト教の新旧宗派対立を臆せず説明し、宣教師の話を真に受けていた家康の誤解は解かれた。ウィリアムたちを気に入った家康は彼らをしばらく投獄したものの宣教師たちの執拗に処刑の要求からウィリアムたちを擁護し、後に釈放して江戸に招いた。
関ヶ原の戦いではリーフデ号搭載の大砲が実戦使用され、記録では南蛮人も加わったとされ、一説ではウィリアムたちではなかったかとされ、小早川秀秋に裏切りを促したのも鉄砲ではなくこの大砲を撃ったともされる。
江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康の側近として取り立てられ、外国使節との交渉や通訳を担い、学問や航海術を教授し、西洋式帆船の建造にも携わり、家庭も持った。そして、旗本となり領地を与えられ、帯刀も許され、「三浦按針」と名を与えられ、外国人の武士となった。
イギリス東インド会社の使節が来日し、家康の許しもあって彼らとともに帰国の機会はあったが、船長と馬が合わず帰国を見送った。
そんな按針だったが、家康死後は徳川秀忠率いる江戸幕府が貿易を縮小する(いわゆる海外から鎖国と言われた)体制を始めたため、幕府での立場が不遇となり九州の平戸に天文官として赴任。1620年(元和6年)5月16日に病で没した。
尚、日本橋大伝馬町の名主の娘(とされる日本人女性)との間2人の子供が生まれており、このうち息子のジョゼフ(Joseph Adams)は按針の没後に家督や所領とともに2代目三浦按針の名を継ぎ、徳川家光による幕府体制の完成直前まで朱印船貿易を続けていたとされる。
逸話
まだ戦乱が完全に治まってはいなかった当時の時代において、武士として戦にも臨んだことがあった彼は、当時の日本や日本人について高く評価している。
航海士として世界中に滞在しながら旅して回っていたことを考えると、彼のこの評価は相当なものだろう。
日本人について
「この島の住民は天性温良、所作は親切。しかし戦陣に臨んでは勇敢」
日本について
「彼らの裁判は」
「法を犯すものには仮借なく厳しく刑を執行する」
「よく発達した警察によって治安が守られている。これ以上に治められている国は、世界に二つとない」
(別冊『正論』30 -明治維新150年―先人の智慧と気概-より)
創作の三浦按針
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日本史 戦国時代 安土桃山時代 江戸時代 イギリス 青い目のサムライ
shogun-主人公のモデルとなった。