高天神城の戦い
たかてんじんじょうのたたかい
合戦の舞台となった高天神城は、遠江と駿河の国境付近、現在の静岡県掛川市上土方・下土方に位置する要衝であり、今川氏の滅亡後に遠江を領した徳川家康にとっては同国支配の上で重要な拠点の一つでもあった。
一方、今川氏の旧領のうち駿河を領した武田氏は、同国のみならず遠江や三河、即ち徳川領へもその食指を伸ばしつつあり、高天神城も元亀2年(1571年)に武田信玄による2万あまりの大軍の侵攻に曝された(※)他、翌年の「西上作戦」では二俣城の陥落により、高天神城と浜松城とを結ぶ連絡線が断たれ、高天神城が孤立するという事態も発生した。
もっとも、この西上作戦の段階でも高天神城は依然として徳川の領するところであり、信玄の没後その後継者となった武田勝頼は、徳川からの反攻への対抗として積極的な軍事行動を敢行。遠江への足がかりとして高天神城を狙ったのもその一環であり、ここに徳川と武田との間で高天神城を巡る攻防が展開されることとなるのである。
(※ これに関しては関係文書の年次比定の再考から、信玄没後の天正3年(1575年)に起こった出来事ではないかという見解も示されている)
武田による高天神城攻略に向けた動きは、信玄が没して間もない天正元年(1573年)のうちから既に進められており、勝頼は馬場信春に命じて牧之原の台地に、足がかりとなるべき諏訪原城を築城させている。
そして翌天正2年(1574年)5月、勝頼は2万5千の軍勢を動員して出陣、高天神城の攻撃に着手した。この時高天神城に籠もる戦力はわずかに1000、城主の小笠原信興は直ちに家康に援軍を求めたが、当時の徳川はどう頑張っても1万を動員するのがやっとな上、信州方面からの武田の侵攻の危険も抱えていたことから、独力でこの状況を打開することは困難であった。
已む無く、家康は同盟相手であった織田信長へと援軍を要請、信長もこれに応えて自ら軍勢を率いて出陣し、6月中旬には三河吉田城にまで達した・・・のだが、時すでに遅く高天神城は武田方の攻勢の前に郭や守将らを相次いで失い、小笠原信興も城兵の命と引き換えに開城するに至ったのである。時に天正2年6月18日、織田からの援軍が三河に達した翌日のことであった。
この時、勝頼は信興をはじめとした高天神城の将兵たちを全員助命し、その上で武田への帰参を希望する者はこれを受け容れ、また徳川への帰還を求めた者達に対してもこれを見逃すなど、寛大な処置を取った。こうした処置や、信玄でさえも果たせなかった高天神城を落としたという事実により、勝頼がその声望を高めたのとは対照的に、家康や信長は高天神城を見捨てたとして、徳川から武田へと鞍替えする将も少なからず発生する結果となった。
勝頼は城将として旧今川家臣・岡部元信を高天神城に置くとともに、攻城戦に際して被害を蒙った城の修築や城域の拡張も行い、体制の立て直しを進めている。
高天神城を巡る戦いをまずは制したとはいえ、武田もこれに満足することなく遠江・三河へのさらなる攻勢を強め、天正3年(1575年)春には長篠城にもその矛先を向けるに至った。しかしこの長篠の攻城戦は、城将の奥平貞昌らによる頑強な抵抗に加え、その間に徳川・織田の援軍が到着するなどといった誤算を生じさせ、遂には設楽ヶ原での決戦で惨敗を喫するに至った。
対して徳川・織田方はこの長篠の戦いでの勝利の余勢を駆り、美濃では岩村城、遠江では二俣城を奪還。さらに徳川は8月に諏訪原城をも陥落させ、城将に当時徳川に身を寄せていた今川氏真を置くことで、二俣城と合わせて孤立した高天神城への締付けや、駿河への攻撃の強化に力を注ぐこととなる。
思わぬ痛手を蒙った武田もまた、挽回を期して領国再建へと動き出していた。
周辺諸国との外交方針の立て直しもそのひとつで、既に北条氏政と締結していた甲相同盟に加え、それまで敵対関係にあった上杉謙信との和睦(甲越和与)、さらに毛利輝元との同盟(甲芸同盟)や佐竹義重との同盟(甲佐同盟)も新たに結ぶなど、周辺諸国との結びつきを強化し、徳川や織田に対抗する体制を再び整えていった。
また高天神城を巡る攻防においても、長篠の戦いから間もない天正3年夏には徳川からの攻撃を受けながらもこれに抗戦。翌年以降も天正7年(1579年)まで、勝頼は連年に亘って高天神城からの救援要請に応えて出陣し、同城の維持に努めた。しかしこの間、徳川方は小山城(現在の静岡県榛原郡に所在。当時は武田方の大熊朝秀が守将として入っていた)を始めとする周辺拠点の攻略を通して、高天神城への補給路を断つべく動いており、天正6年(1578年)には大須賀康高に命じて新たに築城させた横須賀城(現在の静岡県掛川市西大渕に所在)を拠点として、武田方による高天神城への補給を再三に亘って妨害せしめている。
武田方もそうした動きに対し幾度となく反攻を試みているが、その補給線の長さと困難さ故に高天神城の維持は、武田方にとって既に相当な負担になりつつあったのである。
度重なる補給失敗により、高天神城の食料備蓄も乏しくなる一方、家康は天正8年(1580年)夏までに、高天神城の周囲に砦を複数築き(高天神六砦)、同城への補給路を完全に遮断。そして同年10月、満を持して徳川方による再度の高天神城攻めが開始された。
先の高天神城攻めで、力攻めにより短期間で城を陥落させた勝頼に対し、家康はそれまでの締め付けの延長線ともいうべき兵糧攻めを選択。徳川方による攻囲は実に半年近くに及び、この間城兵の多くが餓死したと伝わっている。
こうした苦境を前に、城側からも本国へと救援要請が出されているが、この時勝頼には前年までとは異なり、救援に動けない要因が3つ存在していた。
- 御館の乱を経て北条氏との同盟が手切れとなり、駿東において北条方からの攻勢にも対応する必要があった
- 信長との間で再度の関係修復を模索しており(甲江和与)、いたずらに織田を刺激するような動きには出られなかった
- 前述した負担の大きさから、兵力温存のため城の放棄を、軍監として高天神城入りしていた横田尹松より提言されていた
これらの要因により勝頼が身動きを取れずにいる一方、家康の元には信長から「高天神城の降伏を許さないように」との書簡が送付されている。既に城側からも投降を申し出る者が相次いでいた中でのこの判断については、先の高天神城攻めの折に「徳川・織田が高天神城を見殺しにした」として声望を失ったことを踏まえ、逆にこの戦いで「武田が高天神城を見殺しにした」という構図を作り出したいがためであったとも考えられている。
頼みとしていた本国からの援軍が望めず、進退窮まった城方は、天正9年(1581年)3月25日の晩に岡部元信自ら先頭を切り、城から最後の突撃に打って出ることを選択。これに大須賀康高や大久保忠世らの軍勢が応戦し、激しい夜戦の果てに元信以下城兵700名弱が討死。城に残っていた兵たちも尽く掃討され、ここに7年近くにも及んだ高天神城を巡る攻防にも、ようやくの終止符が打たれた。
前出の横田尹松のように脱出に成功し、本国に城の陥落を伝えた者も少数いるものの、孕石元泰(主水佑)らのようにこの時捕虜とされた城将らは、許されることなく処断の憂き目に遭った。先の高天神城攻めにおける、勝頼の取った寛大な処置とは対照的なものとも言える。
陥落の後、高天神城は先の戦いのように修復されることもなく、そのまま廃城とされた。
また高天神城の陥落により、武田は遠江における重要拠点のみならず、救援要請に応じられなかったことで「高天神城を見殺しにした」として、国人衆や一門衆からの声望までも失う格好となった。
前述の通りこれこそが狙いであったとされる信長は、高天神城の落城を諸国に喧伝し、日和見の国人たちへの調略を強化。当然ながら勝頼からの和睦の申し出も黙殺され、朝廷からの勝頼に対する「朝敵」認定までも引き出されるなど、織田・徳川による武田領攻撃に向けた動きは着々と進められていった。
そして翌天正10年(1582年)、木曾義昌の造反に端を発し、ついに織田・徳川・北条は連合して武田領への侵攻に踏み切るのである・・・。