鳥取の飢え殺しとは第二次鳥取城攻めの別称である。「鳥取の渇え殺し(鳥取の渇殺し)」とも。
羽柴秀吉はこれに先駆けた天正六年(1578年)に、播磨三木城攻略戦で兵糧攻め(三木の干殺し)を用いたが、此方ではそれをはるかに上回る凄惨な状況を生み出した事で有名。
高松城の水攻めと併せて秀吉三大城攻めと呼ばれる場合もある。
飢え殺しが行われた背景
織田信長の命で、秀吉が天正八年(1580年)六月より、因幡国守護職である山名豊国が籠もる鳥取城を包囲した上で三ヶ月後の九月、豊国を降伏させた事から始まる(第一次鳥取城攻め)。豊国は信長に臣従した。
しかし同月、毛利輝元が攻め寄せてきたために、今度は毛利に対して降伏。鳥取城家臣団は毛利家への従属を主張して豊国と対立するが、そこで豊国が信長と内通している事が発覚し、家臣団は城主である豊国を追放して毛利氏より新たな城主を迎え入れる事を決定する。天正九年三月十八日、石見吉川家の吉川経安の長男・経家が鳥取城城主として入城した。
鳥取城攻め開始
これを受けて秀吉も再派兵を決断し、天正九年六月二十五日に鳥取城へと二万の兵数にて出立、同二十九日に因幡国に進攻する。
秀吉は帝釈山(現在の太閤ヶ平、本陣山)に本陣を構え、帝釈山山頂も含めた十四、五の砦を瞬く間に築城し、あれよという間に鳥取城の包囲陣を完成させて、鳥取城の経家と睨み合った。この秀吉が召し抱えた先進土木建築集団は、後の天下統一を大きく下支えする事になる。
一方、鳥取城では米の不作による高騰に流されて兵糧米の備蓄を鉄砲、弾薬へと交換しており、城兵千五百名に対して米の備蓄は二百俵しか用意されていなかった。
二百俵は現代数値に換算すると1.2tという数値になるが、これは兵数千五百名当たりで換算すると一人8kgしか割り当てられない、誠に少ない量である。先年、豊国が籠城した折には充分であった兵糧が経家赴任の以前、皮肉にも自ら以てして追放した城主が不在の間に兵糧の多くが流されていたのである。
さらに、秀吉は因幡侵攻の下準備として、商人に米を高値で買い占めさせた上で、毛利家が鳥取城に兵糧を送り込むのを徹底阻止するという工作を行っていた。
そのような中で、追放された前守護の豊国の案内もあって一気に鳥取城を包囲した秀吉は、七月末から築城と築堤による頑強な包囲網を形成し、更に徹底して敵支城を攻撃し敵の兵站線を遮断して鳥取城の補給の手を完全に絶つ。
加えて包囲網内にある村々を攻撃し住人を鳥取城へと逃げ込むよう仕向けた。水軍では細川藤孝らが沖合にて敵の兵站線を遮断し、鳥取城付近まで流れる千代川も河口で浅野長吉が封じ込めた。毛利氏の援軍も山陰は伯耆国有力国人である南条元続、山陽は同じく備前・美作を領する織田方の大名である宇喜多直家が抑えて僅かの補給も許さず、進軍の六月から僅か一ヶ月で鳥取城は兵糧が尽き、餓死者が出始める。一人当たり8kgの米では無理からぬ話であった。
飢餓地獄から降伏開城へ
鳥取城は尾根伝いに雁金山城、丸山城と二つの支城を持っていたが、敵側に疲労が見られた頃、鳥取城と丸山城を連絡する雁金山城を宮部継潤が強行に攻めてこれを落城させたため、鳥取城には雁金山城の敗残兵や周囲の村人が集う形になり、飽和した逃散民や兵士達の食料が遂に絶望的となった。
日本史上に於いて人肉を食したという記録は殆ど見られないが、その例外中の例外がこの第二次鳥取城攻めである。
日夜問わず撃ちかけられる鉄砲と、間断なく行われる威力偵察で城内はほとほと疲れ果て、飢えと精神的疲労で、もはや兵、住民たちは正気を保つ事さえ困難であった。飢餓に苦しみ助けを請う人々は鉄砲で撃ち倒され、その死体の人肉が陣中で奪い合いになるという地獄絵図が繰り広げられ、「栄養価が最も高い脳味噌が真っ先に屍体から剥ぎ取られた」という記録まで残っている。
それでも経家は耐えに耐え抜き、四か月も籠城し続けたが、天正九年十月に遂に降伏。城主である経家ら有力者の切腹と引き替えの士卒兵卒の助命が聞き入れられ、開城する。
しかし開城後、「空腹の余り勢いに任せて配給の米を喰らった兵士が次々と胃痙攣(註)で死亡し、せっかく生き残ったうちの約半数の兵が死亡した」という悲惨な記録も残っている。
註;
かつては胃痙攣、あるいは胃が破裂したと説明されていたが、現在では「飢餓状態からの急激な栄養補給で生じる一連の代謝合併症」の総称として、リフィーディング症候群(refeeding syndrome)の名で知られている。文献としては、東南アジアで日本軍の捕虜となっていたアメリカ軍兵士が、解放後に食事を摂った後、様々な合併症を生じたと報告されて、医療関係者に知られるところとなった。
現代の先進国では極度の飢餓・低栄養状態に陥るケースは稀だが、それでも摂食障害(拒食症)や胃癌の手術後、末期癌状態などで症例・報告例がある。
戦後の処断
当初、秀吉は経家の切腹まで必要はなく、切腹は抗戦派の山名家重臣である森下道誉と中村春続の両名で済ませ、経家は説得して織田家に帰順させようと調整を図っていたが、経家の意志は非常に固く、最終的には秀吉自らが説得に当たるも失敗に終わり、困り果てた秀吉は信長に相談すると信長も渋々ながら許可を出し、経家・道誉・春続の三名が切腹している。
森下・中村の両名は天正九年十月二十四日に切腹。経家はその翌二十五日に切腹、享年35。こうして鳥取城は降伏開城するのである。
尚、経家が切腹する場面は克明に、彼の小姓である山縣長茂によって記載され、現代でもその人となりを知る事が出来る。曰く、
行水をつかい、かねて好みの青黄の袷を着用して廣間へ出た。主従別れの盃をくみかわす。納めの盃は介錯する静間源兵衛に与えた。このとき経家は、声高に二三度からからと笑った。具足櫃に腰掛け、脇差に中巻を作らせてそれを手に取る。座中の者を見まわして、大音に云い放った。 「内々に稽古したものでもないから無調法であらうかもしれぬ」十月二十五日寅刻(午前四時)生年三十五 寛永二十年(西暦1644年)筆、「山県長茂覚書」
辞世の句は、
武士(もののふ)の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん
その後介錯を受けた首級は丁寧に整えられた上で秀吉の元へ送られ、それを検分した秀吉はその死をとても惜しみ、「哀れなる義士かな」と号泣しながら経家を称えたという。
首は後に信長の所へも送られ、信長もまたその死を心から惜しみせめてもの詫びとして自らの手で丁重に葬った。
尚、経家が切腹直前、父・経安ら家族や上司である吉川元春の家臣団に宛てた五通の手紙の内、三通が現存している。
余談
- あまりにも凄惨な戦いゆえに、戦国時代や豊臣秀吉を扱ったドラマでも、この戦については割愛されるかナレーションのみで流される事が多い。1978年のNHK大河ドラマ『黄金の日日』の第24話「鳥取兵粮戦」・第25話「飢餓地獄」は、この戦に巻き込まれた主人公・助左衛門の視点から、放映できるギリギリの部分まで映像化した数少ない作品である。
- 2014年7月、鳥取市教育委員会が鳥取城址マスコットキャラクターとして、「かつ江さん」を発表。昨今のゆるキャラブームとは一線を画す、「兵糧攻めを生き延びた女性」のデザインが物議を醸した。
- 経家の三男・家好は鳥取藩池田家の家臣となって、石見吉川家の血を残すことが出来た。後の安政7年(1860年)、その子孫の一人(名前不詳)が切腹し、当時7歳だった息子の吉川寛雅は「侍とはかくも悲惨なものなのか。もう嫌だ」と出家。明治になって姓を「吉川(きっかわ)」から「吉河(よしかわ)」に改める。その寛雅の孫がかの五代目三遊亭圓楽師匠(本名・吉河寛海)である。