生没年 1548(天文17)年~1626(寛永3)年
官位 従五位下 中務大輔
因幡・但馬をおさめる大名・山名氏の分家である因幡山名家当主・山名豊定の次男。
概要
1560(永禄3)年に父・豊定が死去。永禄7年には兄・豊数が死去し因幡山名家の当主となったが、この頃の因幡山名家は家老の武田豊信の反乱により因幡から追放され、但馬で反攻の機会をうかがっていた。
1573(天正元)年、尼子勝久・山中鹿之助らの尼子残党軍と手を組み因幡へ進攻。豊信を敗死させ、鳥取城を占拠することに成功した。
その後は尼子軍と手を切り毛利氏の傘下に加わったが、1578(天正6)年ごろから織田信長に誼を通じ始め、1580(天正8)年に信長の家臣・羽柴秀吉の鳥取城攻めが始まると降伏。その後毛利軍の再侵攻により鳥取城を追い出され、単身秀吉の傘下に加わりその後2度目の鳥取城攻めに攻城軍の一員として参加する。
その後は徳川家康の食客などを経て秀吉の家臣となり、関ヶ原の戦いでは東軍に参加。その功により1601(慶長6)年に但馬七美郡(兵庫県養父市・香美町)6,700石を与えられたが、一方で宗家当主の山名堯熙は関ヶ原・大坂の陣で西軍についたことにより没落し、山名宗家の当主は豊国とその系統となった。
その後の山名氏は江戸時代を通して交代寄合を勤め、明治維新の際に10,110石で立藩(但馬村岡藩)が認められ、華族令公布後に男爵となった。