人物
中国地方は山陰に一大勢力を有していた、尼子氏の一門に連なる武将の一人。父に尼子誠久、祖父に尼子国久を持つ他、兄に氏久(晴久の末子と説もあり)、吉久、季久、常久、弟に通久がいる。
勝久が生まれて間もなく、宗家当主の尼子晴久による新宮党粛清で父や祖父、兄弟らが誅殺・自害の憂き目に遭う中、勝久はその数少ない生き残りとして、京都にて僧籍に入り余生を過ごす事が当初運命付けられていた。
しかし次代の義久は毛利氏の侵攻を防ぎきれず降伏、戦国大名としての尼子氏滅亡という事態に際し、勝久は山中幸盛ら遺臣達によって尼子氏再興軍の総大将に担ぎ出され、その最期の時まで毛利との戦いに明け暮れる生涯を送る事となったのである。
『陰徳太平記』などで描かれた、上月城の開城・降伏の際に家臣らへ惜別の言葉を送るくだり(後述)などから、もっぱら悲運の将として語られる事の多い人物であるが、一方でその人物像に関しては同書を始めとする創作に由来するものが多く、どこまで実像を反映しているかは未だ不透明な部分も多いのが実情である。後述の『信長の野望』シリーズにおける能力値の控えめなところもまた、このような事情に起因していると思われる。
同時期の尼子氏宗家の当主であった尼子義久とははとこ同士であったが、「一門衆」とはいえ間柄としては縁遠いものがあり、後に勝久が尼子再興軍の総大将となってからも、勝久の親族の大半が義久の父(晴久)によって誅せられた事や、そもそもこの当時義久が幽閉の身にあった事などから、特に義久から何らかの援助を受ける事は最後までなかった。
生涯
「新宮党」の生き残り
天文22年(1553年)、尼子一門の尼子誠久の五男として誕生。祖父・国久と同様に孫四郎の通称を名乗る。
勝久が生まれたのは尼子家中において特に武勇に優れた精鋭集団・新宮党の一族であり、当時の新宮党はその軍事的な貢献や所領における独自の権力行使などを背景に、隆盛ぶりを極めていた。しかしこうした新宮党の独立性の高さと、彼らの横柄な振る舞いは、尼子家中や出雲一国において中央集権体制を確立しようとしていた尼子晴久との衝突を、必然的に誘発するものでもあった。
その結果、晴久は新宮党の粛清を断行し、祖父の国久は誅殺、父の誠久や兄の吉久ら一族の大半も自害に追い込まれるに至った。時に天文23年(1554年)、未だ2歳であった勝久は自身の乳母の夫に当たる小川重遠によって一命を救われ、後に晴久も勝久の助命を許し、自らが保証人となって勝久を京都は東福寺に送り込んだ。これ以降、勝久は同寺にて僧籍に入り、余生を過ごす・・・はずであった。
尼子氏再興軍の総大将として
そんな勝久の人生に最大の転機が訪れたのは、尼子氏が毛利氏との戦いに敗れ滅亡してから2年の後、永禄11年(1568年)の事であった。滅亡したとはいえ、山中幸盛や立原久綱ら尼子氏の再興に執念を燃やしていた遺臣たちは、京都への潜伏の後尼子再興軍の旗頭として擁立すべく、勝久に還俗を求めたのである。
当初彼らの懇願にも応じずにいた勝久も、必死の説得によって再興軍の盟主になる事を決意。やがて還俗した勝久らはまず隠岐へ移動し、毛利軍の動向を窺う事となる。そして毛利軍が九州北部で大友氏との抗争に注力している間隙を突き、翌年には出雲入りを果たし秋上氏や牛尾氏といった当地の旧臣、それに浪人らを糾合し一大勢力を構築。新山城、次いで末次城を本拠とし、月山富田城の奪還を目指した。
総勢6000とも7000ともいわれる軍事力を背景に勢力を拡大し、さらに大友氏の差し金による大内氏残党の蜂起(大内輝弘の乱)も追い風となり、一時は出雲一円を支配下に治めるまでに至った再興軍であるが、やがて毛利氏が九州の戦線を放棄して尼子氏残党への対処に注力すると、その雲行きも次第に怪しいものへと転じていく事となる。
そのような情勢の中、隠岐為清らは再び毛利に加勢(美保関の合戦)、月山富田城の攻略にあたっていた秋上宗信は成果を上げられぬまま、毛利軍の進撃を前に独断で撤退するなど、配下の武将の中からも離反・脱落した者が相次いでいた。事ここに至り、再興軍は総力を布部に結集し毛利軍に決戦を挑んだが、地の利を生かして優位に戦局を展開しつつも、吉川元春率いる別働隊による本陣の強襲により戦局は一変、再興軍は横道秀綱ら有力な武将を失うなど大敗を喫した(布部山の戦い)。
この敗戦を機に、月山富田城を包囲していた再興軍も撤退を強いられ、以降も一進一退の攻防を展開するも次第に毛利軍に圧倒されることとなり、結局元亀2年(1571年)に尼子再興軍は出雲より一掃される事となった。勝久もこの時再度隠岐へと逃れており、遅れて馳せ参じた幸盛らとともに再度の決起の機会を窺う事となる。
3年後の天正2年(1574年)、因幡の山名氏の支援を取り付けた再興軍は当地にて2度目の決起を果たし、因幡から伯耆・出雲方面への勢力拡大を画策。幸盛らの活躍もあって因幡東部を瞬く間に手中に収めるも、その後は再興軍を支援していた因幡・但馬の両山名氏の離反や、周辺の支援勢力の滅亡・衰退により芳しい戦果を上げる事は出来ず、天正4年(1576年)には毛利氏の攻勢の前に因幡からも撤退する事となった。
上月城の戦い
2度目の決起が失敗に終わった後、かねてから繋がりを築きつつあった織田信長の元へ身を寄せ、以降は羽柴秀吉率いる中国方面軍に従って転戦、三度尼子氏の再興を目指す事となる。天正5年(1577年)には宇喜多氏の支城である播磨の上月城を陥落させ、尼子再興軍はその守備を命じられた。
しかし翌年、織田方に与していた別所長治の反逆により播磨に動揺が走ると、これを好機と見た毛利氏は吉川元春・小早川隆景を総大将とした毛利・宇喜多連合軍を派遣、上月城の攻略に乗り出したのである。
当初援軍を差し向け上月城の救援に当たっていた秀吉も、信長からの播磨平定に注力すべしとの命に従う形でこれを断念。近侍させていた亀井茲矩を使者として、勝久らに上月城からの撤退を促した。ところがこの時、勝久らはこの撤退要請を黙殺し、あくまで籠城の構えを通した。その後も毛利軍の攻撃は続き、籠城からわずか3ヶ月後の天正6年(1578年)7月、遂に再興軍は城兵の助命を条件とした上で開城・降伏という道を選んだ。
勝久はこの時、最後まで付き従ってきた家臣らに対して次のような言葉を残している。
「僧籍として一生を送るべきはずであった私を、一度だけでも尼子の大将にしてくれた事を感謝する。今後は各自、命を永らえて命を大切にするように」(意訳)
そして天正6年7月3日(1578年8月6日)、勝久は兄の氏久や弟の通久、嫡男の豊若丸と共に自害して果てた。享年26。
尼子再興軍に従った旧臣らのうち、神西元通は主君に殉じて自害。中心的人物であった山中幸盛も捕虜となり、備後への移送の途中で殺害された。立原久綱も捕縛されながらも脱出に成功し、娘婿を頼って阿波にて余生を過ごした。
こうして上月城攻防戦は幕を閉じ、武門としての尼子氏はここに完全な滅亡を迎える事となる。
各メディアにおける尼子勝久
武将風雲録シナリオ2より初登場。総合能力は尼子一門でも低いが、はとこの義久よりは幾らかはマシなステータスを持つ。しかしシナリオによっては大名になっており、義久同様政治面が低いので使い所が難しい。
武器:刀剣(3) 槍(4) 声:宮坂俊蔵(3)
「私を盛り立ててくれる兵らのために!」(Emp特殊セリフ)
3Empより初登場。山中幸盛の手によって尼子家再興軍の盟主として擁立され、毛利軍と戦った。最終的に上月城の戦いに敗れて自刃した。4では固有武将として毛利の章にて登場し、氏久や通久と共に毛利家と戦った。