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尼子勝久

あまごかつひさ

尼子勝久とは尼子家再興軍の総大将で、尼子誠久(国久の子)の五男。尼子家再興を願う尼子家臣団によって総大将に就任して毛利軍と戦うが上月城の戦いに敗れて自刃した。(1553年-1578年)
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生き延びた遺児

1553年、尼子一門の尼子誠久の五男として誕生。兄に氏久(氏久のみ晴久の末子とも伝わるが不明)、吉久、季久、常久、弟に通久がいる。幼名:孫四郎。

兄・氏久は新宮党後継者に注目される人物ではあったが、それを良しとしなかった祖父の国久は父の誠久の末弟である敬久を後継者にしようとした。(次男の豊久は1546年に討死)しかしこれが逆に氏久の怒りを買い、氏久は本家当主の晴久に訴えた。

この結果、晴久は傲慢な態度に危険視していた新宮党を殲滅させる事を決意。1554年に新宮党一門を呼び寄せた後、国久や誠久、吉久、季久、常久らを謀殺に成功。孫四郎も粛清される恐れもあったが、小川重遠によって救われて難を逃れた。

1560年代後期までは東福寺の僧となった。

旧臣達の説得で還俗

1566年、毛利元就の手によって尼子家は滅亡。その2年後の1568年に勝久の元に尼子旧臣の山中鹿介立原久綱・米原綱寛・秋上宗信(秋上久家)・横道秀綱(横道正光)・神西元通らがやってきた。

当初は旧臣達の意見を聞き入れずであったが、鹿介の説得によって遂に尼子家再興の盟主になる事を決意。隠岐国へ移動し、毛利軍の動向を窺った。そして翌年に出雲国に入ると新山城に入って本拠地と定め、浦上宗景大友宗麟らと結んで行動を開始した。

一時は毛利軍の隙を見て攻め込む事で旧領の大半を手に入れ、回復に成功する。ところが、隠岐為清らが再び毛利に加勢した事や宗信が独断で毛利に降伏したり、秀綱が毛利軍との戦いで敗死。更に綱寛も毛利に敗れて出家した為に兵力を温存させる事が出来なくなり、結局は毛利軍との大決戦に敗れて、出雲から退散する事となった。1574年には山名家の救援を得て奪還を図るも、これも失敗に終わった。

上月城の決戦

その後は織田信長の元、羽柴秀吉に従って転戦。1577年には上月城に入城してその守備を命じられた。しかし翌年、吉川元春小早川隆景を総大将とした毛利・宇喜多連合軍が襲来。

秀吉はやむを得ずに別所長治の討伐に専念する事となり、近侍させていた亀井茲矩を使者として勝久らに上月城からの撤退を命じさせた。ところが、勝久らは毛利軍と羽柴軍の衝突を避けるべくこの撤退要請を無視。毛利軍の攻撃が続き遂に尼子軍は降伏する事になった。

尼子軍は兵士の助命を開城した。勝久はこの時に

僧籍として一生を送るべきはずであった私を、一度だけでも尼子の大将にしてくれた事を感謝する。今後は各自、命を永らえて命を大切にするように」(意訳)

と呟き主家を滅ぼした毛利家に一矢報いる機会を得た事に感謝の言葉を述べている。そして8月6日(旧暦:7月3日)に兄・氏久や弟・通久、息子の豊若丸と共に自害したのだった。享年25歳。

尼子再興軍の家臣団の内、神西元通は主君に殉じて自害。中心的人物であった山中幸盛も捕虜となり、後に備後国鞆に送られる途中に備中にて殺害される。立原久綱も同様捕縛されるが、脱出に成功した。こうして上月城攻防戦は幕を閉じ、武門としての尼子家は完全に滅亡した。

各メディアにおける尼子勝久

信長の野望
武将風雲録シナリオ2より初登場。総合能力は尼子一門でも低いが、従兄弟の義久よりは幾らかはマシなステータスを持つ。しかしシナリオによっては大名になっており、義久同様政治面が低いので使い所が難しい。

戦国無双
武器:刀剣(3) 槍(4) 声:宮坂俊蔵(3)

「私を盛り立ててくれる兵らのために!」(Emp特殊セリフ)

3Empより初登場。山中幸盛の手によって尼子家再興軍の盟主として擁立され、毛利軍と戦った。最終的に上月城の戦いに敗れて自刃した。4では固有武将として毛利の章にて登場し、氏久や通久と共に毛利家と戦った。

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