概要
戦国時代、尼子氏に仕えた武将。新田や産業振興に腐心し、今も人々に好かれる。豊臣秀吉に琉球をねだり琉球守となった。九州以外の大名として唯一朱印船貿易を行った。
亀井さん伝説(生涯)
※本記事では亀井さんに敬意を払い、「亀井さん」呼びで統一いたします。亀井じゃねえ、亀井“さん”だ
戦国時代、中国地方にて毛利家と戦うことになる尼子家に仕える湯永綱の子に生まれ、始めは「湯国綱」を名乗った。尼子家が毛利元就によって滅亡した後は諸国を流浪して、京都に一旦落ち着く際に、山中幸盛(山中鹿之介)の養女で亀井秀綱の次女を娶って亀井氏を継ぎ元服、亀井真矩→亀井茲矩と名を改めた。
まだまだ10代後半の若者だった亀井さんは、織田信長の助力を得て、山中鹿之介・立原久綱・神西元通らと尼子勝久を擁立。尼子家再興の戦いに参加する。拠点である私都城を任されていたことから、尼子勝久が上月城にて孤立した際は、羽柴秀吉の命をうけて上月城内に使者として入城した。だが、撤兵を拒んだ尼子勝久や山中鹿之介らと道を違える事を選ぶ。その後、上月城は落城して尼子勝久は自害、鹿之介は吉川元春に殺された。
その後、秀吉の中国遠征に参加して毛利家と激突、鳥取城攻めで槍の新十郎らしい軍功を挙げ、13万石の知行を得て鹿野城主となり、九州征伐や小田原の役や朝鮮出兵にも参加した。秀吉に対して琉球を所望した程の東アジア通であった亀井さんは、シャム王国(現在のタイ)と350艘の朱印船を用いて貿易を行う。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して再び鳥取城攻めを行う。この時大規模な城下町焼き討ちを行ったことを徳川家康に咎められるも、友軍の斎村政広が責を負い切腹したことで難を逃れた。どうやら亀井さんが責任を押し付けたと思われ……おや、誰か来たようだ
戦後38万石に加増され、沼沢地の干拓や2キロに及ぶ用水路の敷設や、茶・桑などの殖産興業や農業の振興に尽力した(これらは今でも「亀井堤」「亀井笠」など、鳥取県で名前が多く残る)。
秀吉や徳川家康とシャム国王との交歓に尽力した後、鹿野にて没した。後を継いだ子の亀井政矩は、石見国の津和野に移封される。
人物
- 司馬遼太郎は「街道をゆく」にて『茲矩には中国趣味よりもインド趣味があり、鹿野を王舎城と名つけたこともその表れだった。茲矩に仏典の素養があったことを思わせる。それ以上に思想への憧れを感じさせるのである』と記している。
- 山中鹿之介の菩提を弔ったり、鹿之介の妻を保護する等、尼子家復興を旗印に集まった仲間を大事にする出来た人物だったと言える。
信長の野望では
目立つ戦功が少ないせいか「槍の新十郎」な評価よりも文官として評価されている。