概要
いつ築城されたのかは不明だが、因幡国守護の山名氏に属していた志加奴氏(鹿野氏とも書く)によって築かれたと云われている。
1544年頃、因幡に侵攻してきた尼子晴久によって城主の鹿野入道以下300余名が籠城の末討ち死し鹿野氏は滅亡、その後尼子氏と山名氏によるこの城をめぐる小競り合いの後、1580年秀吉による第1次鳥取城攻撃の際に織田方の城となり、尼子家の旧臣・亀井茲矩が守将となりそのまま江戸幕府下の鹿野藩初代藩主になる。
朱印船貿易もしていた茲矩の手によって城郭の近代化・城下町整備・さらには白兎神社の再興などで栄え、仏教好きでもあったため別名の王舎城や城下町を鹿野苑、背後にある山は鷲峰山など名付けられる。
が、1617年❷代目藩主政矩の時に石見津和野藩主坂崎直盛が凶行をやらかして改易され政矩は津和野に移封、同じ年の池田光政の鳥取入府に伴い、家老の日置忠俊が城主になる。
その後城下町で火災があり城が炎上などでだんだんと廃れ、1644年2月頃に城の破却が行われた。
城の構造としては全盛期は標高148mの山頂に本丸があり小規模な天守を配置そこを中心に朝鮮櫓・オランダ櫓と言われた櫓を備えた二の丸・三の丸と階段状に配置、県内の近世城郭では唯一、西の丸の呼称を持つところも存在していた。
現在は山頂の天守台や内堀・外堀・石垣などが現存し、二の丸には鹿野中学校などが建っている。
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