小田原城
おだわらじょう
最初の城主は北条氏ではなく大森氏という豪族でありその一族の大森藤頼(おおもりふじより)が築城した。当初の小田原城は何とも極小規模な物だったようである。
その後、伊豆国を手中に収めた伊勢宗瑞(いせそうずい、北条早雲[[]]は彼の死語に広まった名前)は藤頼と誼を結んで油断を誘い小田原城を奪収し以後、後北条氏5代の居城となった。
その城郭は代々の当主により拡大改修が行われ、最終的には総構えといわれる城下一帯を内包する城塞都市に発展、城壁は総全長9kmに及んだという。
このような城だけではなく町そのものを城壁で囲む城砦都市は大陸には古くから発展していたものの、島国で平地の少ない日本ではほとんど馴染みがなく、正に画期的な存在であった。
また、小田原城本体とその支城を中心とする後北条の防衛網は関東平野に跨るほどの非常に広大なもので、これらとの連携により如何なる大軍による圧迫も効率的に分散することが可能となっており、これもまた小田原の難攻不落を実現する重要な要素の一つとなっていた。
難攻不落の要塞として知られ、武田晴信、上杉輝虎の両将を追い返した。
その堅牢さは天下人となって以降兵力の損耗を余り考慮しなくなった豊臣秀吉にさえ力攻めを断念させたほどであった。
しかし、1590年(天正18年)の豊臣連合軍による小田原征伐では3ヶ月籠城して持ちこたえるものの、小田原城本体の防衛を重視する余りに戦力を集中させ過ぎたことが仇となり、支城群が速攻で落とされ巨大防衛網が早々に瓦解、総勢20万人以上の空前の大軍を相手に、後詰もなく裸一貫で組み合う最悪の事態に陥ってしまう。
北条氏政は武田・上杉撃退の前例を鑑みて20万もの大軍を長く維持できるはずがないと睨んでいたが、陸海複合輸送を駆使した強固な兵站線に支えられていた豊臣軍に全くそんなことはなく、逆に上述の戦力の過剰集中がまたもや仇となった北条軍の兵糧は想定以上に早い消耗を強いられ、圧倒的物量とあの手この手の謀略を前に、あえなく無血開城された。
関東が徳川家康の所領となった際、惣構は破壊され、家康の腹心大久保忠世により近世城郭として整備された。但し破壊しきれなかった惣構は現在も東海道本線北西側に残存する。
居館跡を本丸として三層四重の天守が築かれ、本丸には将軍上洛の際に宿所となる御殿が造営された。関東で天守を持つ城は、当時江戸城の他には沼田城(後に改易破却)と笠間城のみであった。
天守、櫓の装飾には窓の上下に二重の長押が施され、幕府親藩の象徴を誇示した。
関東地方は江戸時代を通じ震災に襲われ、小田原城も寛永・元禄の二度破壊され、元禄の際には揺れにより木材が擦れ火災を生じたとの記録がある。天守は宝永三年に再建された。この際五層の天守とする案もあったが幕府への配慮で三層となった。この時の計画模型が現存する。
現在、小田原城は国指定史跡となり、市の整備で公園となった。
明治の初めに取り壊された天守は1960年に鉄筋コンクリートで復元され、城内には動物園や遊園地が整備され、子供たちの憩いの場ともなった。
ところで、今の小田原城は、実は北条氏時代の物ではなく、江戸時代に大規模に改修されたものである。
北条氏時代の遺構は、現在の小田原高等学校がある場所で、少なからずですが遺構を見ることができるようである。