概要
別名、久松城、久松山城。
天神山城の出城だった説もある。
尼子氏や毛利氏らが争い、1580年には豊臣秀吉側につくも家臣は納得せず山名豊国を追放し、吉川経家を招聘。
ここにあの有名な鳥取の飢え殺しにさらされることになるのである。
その後は秀吉の側近宮部継潤が城代となり、1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となったが、継潤死後に発生した関ヶ原の戦いで子の長房が西軍についたため改易。代わって池田輝政の弟・長吉が城主となり鳥取藩の初代となる。長吉の子・長幸が備中松山に転出した後、長吉の大甥・光政(輝政の長男・利隆の子)が姫路から転封された。鳥取城は光政時代に近世城郭として変貌し城下町も整備された。のち光政は従弟・光仲(輝政の六男・忠雄の子)と所領交換する形で岡山に移り代わって光仲が鳥取に移る。この光仲が因幡池田家の初代となりのちに備前池田家からの独立を幕府から許され因幡池田家は幕末まで鳥取藩主を輩出し続けた。また光仲の祖母は徳川家康の長女・督姫(北条氏直と死別後、輝政と再婚)だったために因幡家の家格は本家の備前家よりも高かった。
城郭の改修時に、山頂の本丸に二重の天守、山麓の二の丸に三重の御三階櫓が建造され、これに続いて多門櫓と二重櫓が並び、その景観は明治の古写真にも記録されている。
明治の廃城令によってこれら以下すべての建築が破却され、城址は学校となった。
近年、学校の裏口となっていた大手門跡を復元する計画が実施中で、2020年現在堀にかかる木橋を復元中である。
石垣の修復のために作られたという球体の石積み「天球丸」が存在する。
なお、少なくとも山中鹿介に2度、吉川元春に2度、豊臣秀吉に2度、亀井茲矩に1度と合計7度の降伏や力攻めによる落城がある。
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