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吉川元春

きっかわもとはる

吉川元春とは、中国地方の戦国武将。生涯不敗を誇る名将として名を馳せ、弟の小早川隆景と共に本家を支える「毛利両川」の一翼を担った。(1530年-1586年)
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生涯編集

吉川氏の家督相続編集

享禄3年(1530年)に、安芸の国人・毛利元就と妙玖夫人の次男として生を受け、10歳の時に起こった吉田郡山城の戦いでは父の反対にも拘らず自らも出陣、初陣を飾っている。その後天文13年(1544年)からの一時期には叔父・北就勝の養子に迎えられていた事もあった。


天文16年(1547年)夏、母方の従兄に当たる安芸の国人・吉川興経の養子に出されたのが、元春にとって最初の転機となった。当時の吉川家中では当主・興経の器量不足や、風見鶏的な外交姿勢に対する反感・不信感が高まっており、吉川経世(興経の叔父)ら吉川家臣団の申し出と、安芸における政治基盤をより盤石にしたい元就の思惑とが一致した結果、この養子縁組が成立したのである。

養子入りした時点ではあくまで興経の嫡子・千法師が成長するまでの中継ぎという立ち位置であったが、天文19年(1550年)になると元就の調略によって興経は強引に隠居・幽閉に追い込まれ、後には千法師もろとも誅殺されてしまう。これにより元春は吉川氏の家督を継ぎ、毛利本家を支える吉川氏という構図が完成した。


同時期には、やはり元就の画策によって小早川氏の家督を弟・小早川隆景が継承しており、元春と隆景は共に名高き「毛利両川」として、その後も本家の勢力拡大のため活躍して行く事となる。


毛利氏の武将として編集

父・元就をして「眼東南を見て、心西北にあり」と評するなど、元春は若い頃から武勇の面で秀でたものを備えていた。吉川氏の当主となった後もその勇猛果敢さは留まるところを知らず、厳島の戦い(1555年)への参陣、それに弘治年間に入ってからの石見銀山を巡る尼子氏との抗争においても、常にその最前線で活躍。多数の武功を上げ、毛利氏の勢力拡大に貢献している。

尼子氏との長い抗争の末、第二次月山富田城の戦いでこれを降し、中国地方きっての大勢力となった毛利氏であったが、それもつかの間の永禄12年(1569年)、尼子勝久を擁した山中幸盛ら旧臣達による、尼子氏再興運動が発生。この動きに対して元春も出陣、2年余りをかけてこれを打ち破っている。またその間には豊後の大友氏の手引きにより、大内輝弘を首魁とした反乱が旧大内領の周防で起こるも、こちらも隆景と共に鎮圧せしめ、事なきを得ている。


しかし元亀年間に入り、父・元就が死去しその孫・輝元へと代替わりした辺りから、中国地方を制覇し勢い盛んな毛利氏を取り巻く状況にも、次第に暗雲が立ち込めていく。特に毛利氏にとって最大の難敵となったのが、畿内を中心に勢力を伸長しつつある織田信長であった。

当初は必ずしも険悪な関係ではなかった両者も、京都を追われた室町幕府将軍・足利義昭を毛利氏が保護した事や、元春ら毛利軍によって圧迫された尼子氏の残党が信長を頼った事により、いつしか対立関係へと転じていった。

天正5年(1577年)より、毛利氏は羽柴秀吉率いる中国遠征軍と、播磨などを巡って衝突。またこれに従軍していた尼子氏再興軍に対しては、彼らが拠る上月城を70日にも亘る包囲戦の末に陥落させ、盟主・勝久を自刃に追い込み山中幸盛も誅殺せしめるなど、彼らとの長きに亘る戦いに終止符を打つ事にも成功している。

とはいえ、毛利軍の優勢も年を追うごとに徐々に覆されていき、三木城、鳥取城など毛利方の諸城の陥落や、宇喜多直家南条元続ら中国地方の有力国人らの織田方への鞍替え、さらに父・元就の頃より度々抗争を続けてきた、豊後の大友氏もまた後背を脅かすなど、毛利氏は非常に厳しい状況に直面する。


天正10年(1582年)に入っても不利な情勢は変わらず、備中高松城を巡って毛利・羽柴両軍が睨み合いを続ける中、6月に発生した本能寺の変により信長が横死するや、その仇討ちを果たさんと秀吉は早期の和睦を打診、毛利側もこれに応じて事なきを得ることとなった。

その際、元春は備中より撤退する羽柴軍への追撃を主張し、これに対し隆景が制止したとの逸話が残されている(『川角太閤記』)が、一方で吉川家の文書によると、そもそも元春も追撃の無謀さと、これに失敗すれば毛利に後はない事を、隆景と共に主張したとも伝わっている。


晩年編集

秀吉との和睦から程ない天正10年の暮れ、元春は秀吉への臣従を拒む意味合いもあり、吉川氏の家督を嫡男・元長に譲った。そのため毛利本家が秀吉の全国統一事業に協力し、四国征伐などへ参加する中にあっても、吉川氏は元長が総大将として出陣こそしているものの、元春自身は隠居の身である事を理由に本国より動く事はなかった。

ところが天正14年(1586年)、大友氏の要請により秀吉が九州平定に乗り出すと、元春へも参陣を強く要求したのである。この頃既に元春は重い病を患っていたが、隆景や輝元の説得もあり、最終的には元長と共に九州へ渡る事となった。そしてその平定も半ばの同年11月15日(1586年12月25日)、出征先の豊前小倉城にて57年の生涯を閉じた。


元春の死から半年余り後には、家督を継いでいた嫡男・元長もまた出征先の日向にて早逝。これにより吉川氏の家督は元春の三男・経言(広家)が相続し、引き続き毛利本家を支えていく事となる。


人物編集

冒頭にもある通り、不敗の名将として高名であり、生涯における通算戦績は76戦64勝12分。戦国史を見ても燦然と輝く立派な数字である。とはいえ、実際には石見銀山を巡る戦い(忍原崩れ、降露坂の戦い)や二度の月山富田城攻めなど、元春が参加した合戦には明らかな負け戦もちらほら見受けられる・・・のだが、そのいずれも「元春自身が主導した合戦ではない」という点から、やはり元春自身は不敗である事に変わりはない、という見解も存在する。

そんな元春にとって唯一の敗北とされるのは、幼い日に弟の隆景と雪合戦を行なった折、隆景の策によって裏をかかれ敗れた時の事である、と伝わっている。


こうした武勇の数々から、ややもすると粗暴といったイメージが付きまといがちな元春だが、実際の本人はむしろ思慮深い人物であったようで、自身の武勇以上に配下の将兵を厚く労ったり、父親譲りとも言える戦略・戦術に長けた武将であった事を窺わせる記述も残されている。

また武芸一辺倒なだけでなく、文学に通じ人並み以上の教養も持ち合わせていたという。中でも有名なのが尼子討伐の陣中にあった永禄6年(1563年)より、1年半をかけて行われた『太平記』全巻の書写であり、この書写本は後に「吉川本」と呼ばれ、古典文学研究における貴重な資料として現在にも伝わっている。この辺り、勇将として名を馳せた一方で文学や書道にも堪能であった、母方の曽祖父・吉川経基の血が色濃く表れているのかも知れない(実際、経基にも『古今和歌集』などの書籍を書写し朝廷に献上したという、元春のそれと近似した逸話が残されている)。


元春については、その夫人・新庄局に関する次のような逸話も残されている。毛利氏と協力関係にあった安芸の国人・熊谷信直との関係強化のため、信直の娘(新庄局)を娶る事にした元春であったが、その娘はたいそうな不器量であり、縁談を薦めた家臣も驚いて確認すると、元春は「信直の娘はその不器量故に嫁の貰い手も無く、もし自分が娶れば信直も喜んでその恩義に報いるだろう(意訳)」と、その理由を語ったとされる。また同時に、自らを女色に溺れさせないようにという自戒の意味も込められている、とも言われる。その後、新庄局は家臣たちからも慕われる良妻となり、元春との夫婦仲も非常に良かったという。

もっとも、新庄局が不器量であった事を伝える確実な資料はなく、また同様の逸話は諸葛孔明のものを始め多数存在する事などから、実際に彼女が不器量であったかどうかについては定かでない事にも留意されたい。ともあれ、前述の通り政略結婚としての意味合いが強かったこの縁談ではあるが、元春と新庄局は終生相思相愛であったことは伝わっており、三男・経言(広家)に宛てた書状の中にも、その良好な関係を窺わせる記述が複数存在する。


創作編集

軍師黒田官兵衛伝編集

堂々たる体躯と荒々しい面持ちが特徴な猛将。生涯無敗を誇る武断派武将であり、秀吉との和睦にも最後まで反対していた。

この時代としては珍しく側室を持っていない(そのため、隆景共々側室を持っていない黒田官兵衛に親近感を抱いていた)のだが、その正室がすこぶる醜女であり、敵軍はおろか隆景からも散々バカにされている。


戦国無双シリーズ編集


武器 槍(激)、刀(2emp) cv 草尾毅(2emp)


激・戦国無双から一般武将として登場している。

2empiresでは三本の矢の教えを元にした会話イベントのほか、上杉謙信を大天狗と称した事を下敷きにした大天狗というイベントがある。


5では固有武将として登場。

無双奥義・無双秘奥義の文字…【武】『雄』

区分:固有武将

得意武器:大身槍

所属:毛利

CV:蟹江俊介

元就の息子。毛利の武闘派。




関連タグ編集

日本史 戦国時代 戦国武将 中国勢

毛利元就 毛利隆元 毛利輝元  小早川隆景 毛利両川 吉川広家

信長の野望 太閤立志伝 創作戦国

広島県

吉川晃司 - ミュージシャン。元春の末裔であるとされる

松重豊 - NHK大河ドラマ『毛利元就』で元春を演じた。

太平記-月山富田城攻めの陣中で書写。

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