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概要


永禄4年(1561年)11月1日、吉川元春と新庄局の3男として生まれる。
幼少時は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、礼儀作法がなっていないことや勝手に他家の養子になろうとしたことで両親から叱責されたという記録が残っている。

正室は宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)容光院だが、弱冠20歳頃の若さで容光院は病死したためその後は正妻を迎えず側室を置くのみだった。

関ヶ原の戦いでは、主君である毛利家当主毛利輝元が、家臣である自分達に何の相談もせず、安国寺恵瓊との交渉で西軍の大将に担ぎ上げられるのを勝手に受け入れてしまい(小早川隆景は生前、輝元に恵瓊を信用するなと警告していたのだが、輝元本人はそれを忘れてしまっていた)、これに反発。恵瓊を嫌っていた事もあって、広家は東軍が戦いに勝利するだろうと予測し、独断で友人の黒田長政を介して徳川家康に内通。更には他の家臣達と共に、西軍についても積極的に協力しないよう輝元を説得した。
本戦では先陣を務める広家が動かないことで南宮山の毛利秀元の動きを封じ込めた。(このとき長宗我部盛親らの出陣を乞う使者に対して秀元が苦し紛れに「これから弁当を食べる」と言って要求を退けたと言われる。これを指して「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。)

しかし戦いの終結後、輝元が広家達の言葉を無視して連判状に花印を押してしまうといった西軍への協力を積極的に行っていた事実が発覚。当然、家康からは「裏切り」と見なされる事になり、毛利家の本領安堵の約束も反故にされ、周防、長門の2ヶ国に減封されてしまう。
このことから吉川家は長州藩において複雑な立場となってしまった。

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戦国武将毛利元就小早川隆景毛利輝元安国寺恵瓊

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