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小早川隆景

こばやかわたかかげ

小早川隆景とは、中国地方の戦国武将。兄・吉川元春と共に「毛利両川」の一翼を担い、毛利本家の発展に尽力。後に天下人となった豊臣秀吉からも厚い信任を受けた。(1533年-1597年)
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概要

中国地方の雄・毛利元就の三男で、毛利両川体制の一翼を担った小早川氏の当主でもある。父・元就の才覚を特に色濃く受け継いでおり、元就からも幼少期より多大な期待を寄せられていたほか、政務のみならず私事に係わることでも多数書状のやり取りがあったなど、元就の息子達の中でも特に親子仲がよかったと伝わっている。

即断即決をよしとせず、十分に熟慮の上で物事に当たる気質だったようで、親交のあった黒田孝高(如水)に対して「貴殿は切れ者故に即断即決が多く、後悔する事も多いだろう」と指摘した事もあった他、その息子である長政から「分別とは何か」と問われた際にも「長く思案して遅く決断する事」「分別の肝要は仁愛にあり、これを本として分別すればそう大きくは間違わない」と説いたとされる。

豊臣秀吉曰く、直江兼続堀直政と並んで「天下を任せられる人材」であり、「日本の東は家康に、西は隆景に任せれば万事安泰である」と信頼を寄せるなど、戦国時代きっての知将として広く知られている。また前出の孝高も隆景の死に際し「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆いたという。

生涯

幼少期(小早川氏相続)

天文2年(1533年)に誕生。8歳の時に、毛利氏と友好関係にあった安芸の国人・竹原小早川氏の元へ養子に送られている。当時、竹原小早川氏は当主・興景が跡継ぎのないまま戦死しており、同家の重臣らや主筋の大内義隆からの要請で父・元就がこの養子縁組を承諾したという背景があった。
天文13年(1543年)に12歳で竹原小早川氏の当主に就任、さらに天文16年(1547年)には備後神辺城攻めに従軍、その支城を単独で落とすという戦功を挙げ初陣を飾った。ちなみにその際の義隆からの感状の署名などから、この合戦と前後して元服したものと考えられている。

さて、その頃小早川氏の本家に当たる沼田小早川氏では、当主・繁平が若年かつ盲目であった事から満足に政務を取れず、家中でもこのまま繁平を当主として仰ぐか、分家の当主である隆景を迎えて両小早川氏を統一するかで、意見が二分される格好となっていた。
この状況は大内氏も憂慮するところであり、このままでは尼子氏からの攻撃に耐えきれないと判断した義隆は元就と共謀の上、隆景擁立派への支援姿勢を打ち出すと共に、繁平に対しては尼子氏との内通の疑いで強制的に隠居・出家に追い込んだ。そして繁平の妹を隆景に嫁がせる事により、隆景は事実上沼田小早川氏を乗っ取る形で家督を継承、両小早川氏の統一がここに実現した。この一連の謀略に、隆景もまだ若年ながら積極的に参画していたと考えられている。

これにより、毛利氏は同時期に隆景の兄・元春が当主の座に就いた吉川氏と共に、小早川氏をも毛利一門に組み込む事となり、また小早川氏が元来有していた強力な水軍力をも手中に収める格好となったのである。

毛利両川

これ以降、隆景は小早川水軍を率いて様々な戦いに参加、天文24年(1555年)の厳島の戦いやその後の防長計略でも数々の戦功を挙げる。また武功だけでなく、厳島の戦いにおいては家臣の乃美宗勝を通じて、瀬戸内海に勢力を持つ村上水軍を毛利陣営に引き込む事にも成功しており、その後も伊予の河野氏と関係を通じて四国進出への足掛かりを築くなど、外交・調略の面においても重要な功績を残している。

永禄6年(1563年)に毛利本家の当主であった長兄・隆元が早逝すると、その後を継いだ幼少の甥・輝元を元春と共に補佐。輝元に対しては厳格な姿勢で接し、時には折檻に及んだ事もあるものの、そうした行動も輝元そして毛利氏の将来を思っての事であり、あくまで輝元が主君であるという立場は終生変わる事はなかった。
月山富田城の落城で尼子氏が滅亡すると、その直後の永禄10年には前出の河野氏を支援する形で隆景自ら伊予へと乗り込み、一条兼定らを中心とした連合軍を打ち破って当地への毛利氏の影響力を強める事にも成功している。その後も北九州における大友氏との抗争や、出雲における尼子氏残党の鎮圧、さらに備前方面での戦いにも関わり、毛利本家の勢力拡大に尽力する。

天正年間に入ると、台頭著しい織田氏との抗争が始まり、毛利氏も足利義昭の呼びかけによる「信長包囲網」の一翼を担う事となる。毛利軍はこの時元春が山陰方面を担当、隆景は山陽方面における軍事活動を受け持ち、天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、小早川水軍や村上水軍を主体とした毛利水軍の活躍で織田方の九鬼水軍を撃破、石山本願寺への救援を成功させている。
しかし緒戦では優勢にあった毛利氏も、翌々年の第二次木津川口の戦いで九鬼水軍の逆襲により敗北を喫し、さらに羽柴秀吉を大将とした織田氏の中国方面軍による巧みな侵攻・調略の前に、次第に領土を切り取られていく一方へと転じていく事となる。
天正10年(1582年)に備中高松城が中国方面軍によって包囲を受けると、隆景も輝元や元春らと共に救援に赴いたが、一方で勝算の少ないと判断した隆景は早々に和睦の道を模索しており、安国寺恵瓊を通じて秘密裏に秀吉との交渉を続けていた。そんな中で発生した本能寺の変で、織田信長が横死するや、主君の仇を討つべく秀吉は本能寺の変についての情報を伏したまま、毛利氏と和睦を結んで撤退に及ぶ。
信長の死が毛利方に伝わったのは秀吉の撤退から程なくしての事であり、この時毛利軍内からは自分達を欺いた秀吉を追撃すべきとの声も上がったが、隆景は元春と共にその声を抑えて追撃を許さず、結果的に秀吉の天下取りに協力して恩を着せることに成功するのである。

豊臣政権下にて

山崎の戦い、そして賤ヶ岳の戦いを経て秀吉の天下が徐々に固まりつつある中、それまで静観を続けてきた毛利氏もここに至って秀吉への従属を決め、隆景の養子に当たる小早川元総(毛利秀包)と、元春の実子である吉川経言(広家)を人質に出す事で、その姿勢を明確に示している。
これを機に隆景も毛利本家と同様、四国攻めや九州征伐など秀吉の全国統一事業に積極的に協力。豊臣政権からもその功績に報いる形で伊予一国、さらに後にはそれに代えて筑前・筑後を領地として与えられる。ただしこれは豊臣政権による大名統制策の一環でもあり、それまで毛利氏の家臣であった小早川氏を独立した一大名として政権内に組み込もう、という思惑もあっての事であった。
これに対して隆景は、伊予受領の際には一旦毛利氏に与えられたそれを改めて受領するという体裁を取り、また筑前・筑後二カ国に関しては他に領主もしくは代官を置き、自身は佐々成政と一定期間交代で九州の鎮定に当たる事を、結果的には退けられたものの提案している。いずれの場合も、あくまで毛利氏の家臣・一武将であるという立場を隆景が重んじたが故の行動であった。

小田原征伐を経て豊臣政権の全国統一が成ると、続いて行われた朝鮮出兵での文禄の役では、様々な策謀を駆使して何度も日本軍の窮地を救い、勝利に大きく貢献した。この活躍が、隆景の武人としての最大の功績とされている。
その最中の文禄3年(1594年)、実子のなかった隆景は養子として羽柴秀俊(小早川秀秋)を迎えている。秀吉は当初、秀俊を輝元の養子にする心積もりであったが、隆景が先手を打って既に毛利氏は輝元の従弟・秀元(隆景の弟・穂井田元清の子)の養子入りが内定している事を伝えると共に、代わって秀俊を自分の養子にするよう交渉した、という背景があった。これに伴い、先に養子となっていた秀包(元総)は廃嫡、新たに別家を創設し独立する事となった。
翌文禄4年(1595年)には秀俊改め秀秋に家督を譲って隠居の身となるが、その直前には秀吉の命により、家康や前田利家等と共に五大老の一人に任じられているなど、最晩年に至ってもなお秀吉から重用され続けた。

そんな隆景も長年の無理が祟ってか、文禄の役以降は病がちであったといい、慶長2年6月12日(1597年7月26日)に65年の生涯を閉じる事となる。隆景の死から程なくして弟の穂井田元清も他界しているが、死期を悟った両名が病床にて「どちらが先に逝くか」と語り合ったという逸話が残されている。

派生作品

戦国大戦

こばやかわ たかかげ 。



「15XX五畿七道の雄」から参戦。レアリティは最上位のスーパーレア。
武力7・統率10に有用な特技3つと優れた能力。

持ち計略「慧矢の眼光」は、範囲内の敵と味方の武力・統率を大幅に下げる陣形計略。味方が巻き込まれないよう注意しつつ、能力がガタ落ちした敵に向けて矢を浴びせたり焙烙を投げ込むのが基本的な使い方となる。
戦国大戦の陣形は基本的に方向(向き)を変えることはできないのだが、彼は初めてカードの向きを変えることで陣形の向きを変えられる性質を得た。

戦国無双

(*´∀`*)ノ。+゜*。


戦国無双4にて参戦。
詳しくはこちら

軍師黒田官兵衛伝

白髪頭ながらなかなかの美丈夫であり、武骨な兄・元春とは対照的に描かれている。戦国きっての智将であるが、兄嫁のことは「醜女の中の醜女!!」と褒めるなど、意外と毒舌。秀吉のことを「まさにサル」と詰る足利義昭(京を追放された恨みがある)に対して淡々と反論するなど、彼の力量に一目置いている。
羽柴軍が異様に清水宗治切腹を急ぐのを見て裏があると見ぬくも、追撃は得策に当たらぬと判断を下し、憤る元春を説得し講和を行った。

関連タグ

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恵俊彰NHK大河ドラマ『毛利元就』で隆景を演じた。

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