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概要編集

杉原家定(秀吉の正室北政所の兄)の息子(ねねの甥)。兄に木下長嘯子らがいる。1585年に義理の叔父にあたる豊臣秀吉の養子となり、彼の長男だった鶴松の死後、豊臣性を賜ったことで次期後継者として扱われる事になる。

しかし、それ故にその後の秀秋は数奇な運命に翻弄されてしまう事になり、秀秋に取り入ろうと各地の大名諸侯から接待攻勢を受けて、7歳の元服と同時に酒を飲み続けるようになってしまった。


突然の養子縁組編集

1594年、豊臣秀頼が誕生した事で事態が急変。秀吉に疎まれる様になってしまった秀秋は、五大老・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の元へ養子に出され、以後小早川氏を称するようになった。

隆景は毛利家を秀吉に乗っ取られる事を恐れて、本来養子縁組を結ぶはずだった毛利輝元に代わって養子として迎え入れているが、秀吉の自分勝手な都合で捨てるに等しい仕打ちを受けた秀秋の事は気の毒に思っていた様で、その親子関係は良好だったとされている。


しかし、小早川家との養子縁組からその一年後となる1595年には、自分と同じく秀吉の後継者として扱われた豊臣秀次が、言い掛かりを着けられるに近い形で切腹させられた挙句、その妻子達までもが皆殺しにされてしまう事態となる。

そして、自身もまた、謀反を企てたという全く根拠の無い濡れ衣を着せられる形で丹波亀山10万石の領地を没収され切腹までさせられてしまう可能性すらもあったのだが、隆景の働きかけによって、彼の所領である筑前・名島(福岡県)30万石を引き継ぐ事になった。


理不尽な減封処分編集

1597年、15歳になった秀秋は、突然秀吉に朝鮮出兵の命令を受け、戦として全く経験が無い初陣にも拘らず、異国での戦場で総大将として参戦という、極めて無茶な役割を負わされる羽目になる。

義父の隆景は、秀吉が秀秋に下した明らかに無謀な命令に対し反対していたとされているが、結局はその反対を押し切られてしまう事になり、一説では秀吉が秀秋を戦場で亡き者にするか、あるいは失敗させてそれを理由に処分に追い込もうとする謀略であったのではないかとされており、前述の秀次の件からも、その可能性は極めて高かったと言える。

結局、その出兵命令によって朝鮮に渡った結果、秀秋は自分を気に掛けてくれた隆景の死を看取れないまま、死に別れる事となってしまった。


しかし、朝鮮への渡航後の秀秋は実質上の初陣であったにも拘らず数多くの戦功を上げており、加藤清正率いる部隊の窮地を救う活躍も見せた事から、彼からも一目置かれる存在となっていた。

だが、その翌年の1598年、突如秀吉から帰国命令を受けた秀秋は、「戦場で軽率な行動をとった」と再び秀吉に言い掛かりを付けられる形で処分される事になってしまい、一気に所領を半分の15万石にまで減らされた挙句、越前への転封を命じられてしまう。

この結果、秀秋は多くの家臣達を解雇せざるを得なくなるという更なる屈辱的な決定を下さねばならなくなり、長い間補佐してきた山口宗永も去り、清水景治(宗治の次男)や村上武吉なども毛利家に帰参するなどの有り様になってしまった。


この大幅な減封処分は、石田三成の讒言であったとされている。元々人の好き嫌いが激しい三成は、秀秋に対しても偏見を向けていたとされ、また秀秋の元を去って行った一部の家臣は、三成の家臣として吸収されている。

しかし、秀吉の病没後、さすがにこの時の処分は理不尽なものであると判断した五大老の筆頭・徳川家康の取り計らいによって、秀秋は旧領・筑前30万石に復帰する事になり、この頃より秀秋は家康との親交を密かに持つようになったとされている。


関ヶ原の戦い編集

1600年、家康と三成の対立が激しくなり、また上杉家家老・直江兼続が家康個人に対し挑発的な書状を送りつけたのが原因で、徳川軍による上杉景勝征伐の軍が起こされる。

秀秋もまた家康に加勢する形で参戦する事になっていたのだが、家康が大阪城を空けた隙を突く形で三成が挙兵を起こした結果、出陣直前であった秀秋はまた巻き込まれる形で三成率いる西軍に所属させられる事になってしまい、京都の伏見城攻め等に参戦している。


しかし、三成や秀吉から散々な仕打ちを受け、また家康に多大な恩義のある秀秋が、家康と戦う事を望んでいるはずも無く、伏見城攻めの際、何とか東軍側へつく為に、その防衛を担っていた家康の家臣・鳥居元忠に対し、「東軍側につきたい」と交渉しようとしたのだが、聞き入れて貰えず、西軍のまま戦わざるを得なかった。


その後の関ヶ原の戦いにて、小早川軍は開戦の時点で松尾山に布陣しているのだが、ここに陣取ったのは西軍の伊藤盛正を追い出したからである。ここでようやく、東軍側につく要求を徳川の使者から受け賜る事になった秀秋は、機を見て西軍から離反。西軍の大谷吉継率いる軍に向けて攻撃を開始し、それによって連鎖的に寝返りが発生する事になり、追い詰められた義継は自刃する事になる。この時の秀秋の決意によって、関ヶ原の戦いはたったの一日で、「東軍の勝利」という形で決着がつく事になったのである。

……と言うのは従来説だが、現在の研究ではほぼ否定されている。詳しくは後述。


最後編集

関ヶ原の戦い終結後、秀秋は前述の伏見城に関する件について謝罪した事もあって、それを許した家康から岡山藩55万石に加増を受けるのだが、2年後の1602年に突如として逝去、わずか21歳という若さで亡くなる事になり、子供もいなかったために岡山藩も取り潰しとなった(江戸幕府最初の無嗣改易)。あまりにも突然の死だったために、石田三成大谷吉継の怨霊に憑かれたのではないかという逸話がある。

一説では、幼少期より数奇な運命を辿る事になった秀秋は、それによって精神的に追い詰められていた為に、飲酒にふける傾向があったらしく(また、最高権力者の秀吉と近かった彼はかなり早い年齢の時期から多くの人間から酒での饗応を頻繁に受けていたようであり、これが酒浸りに拍車をかけたともされる)酒、過度なアルコール摂取による内臓疾患が死因ではないかとされている。


考察編集

裏切り?編集

近年の研究では、小早川秀秋は開戦前から東軍であったと言う説が強く提唱されている。

戦前から東軍による小早川家への調略は盛んに行われており、逆に小早川家の方から、黒田長政を通して家康に東軍寄りである事を示した書状が現存している。


一方、三成・吉継ら西軍首脳もこの動きを察知しており、三成は秀頼が成人するまでの間の関白職などを約束して慰留を行っているのだが、五奉行であったとはいえ、ただの家臣に過ぎない三成に地位や土地等といった恩賞を与える権限を持っているはずなど無い為、これは秀秋の寝返りを防ぐ為のその場しのぎ的な約束でしかなかったと思われる。


その後、前述したように西軍の伊藤盛正を追い出して松尾山に布陣している。この時点ですでに東軍としての旗色を明らかにしていると考える方が、従来説より自然なのである。

三成ら西軍は、要所である松尾山を東軍・小早川秀秋に抑えられてしまったため、仕方なく大垣城を出撃し関ヶ原に逃れ、そこで東軍の攻撃を受けて壊滅した……と言う説が、現在有力説として唱えられているのだ。


戦後に加増を受けたと言う点も、裏切り説の否定を補強する。

と言うのも、戦国時代においても基本的に、戦いの最中の裏切りと言うものは許されない。時代劇等のイメージから寝返り内応が横行しているように見えるかもしれないが、許される裏切りは戦前からのものであり、戦場で裏切ると言う事は決して許されず小山田信茂のように戦後死罪に処せらることも少なくない。

実際、秀秋とほぼ同時に寝返った武将達は、最初から東軍に味方するつもりだった(が、様々な事情で参戦出来ず、書面で家康に忠節を誓っていた)脇坂安治を除いて全員が減封もしくは改易をされている。

秀秋が加増されたと言う事は、必然的に戦前から東軍についていたと言う証左になり得るのだ。


そもそも前述したように、秀秋は「三成の讒言で理不尽すぎる減封処分を受け、家康の取り計らいで旧領に復帰した」と言う経緯を持つ。普通に考えれば東軍につくのが自然であり、三成に従って西軍につくのは不自然であろう。


なお、「徳川軍に鉄砲を撃ちかけられて裏切りを決意した」と言う説も有名だが、当時使用されていた銃の銃声の大きさや戦場の喧騒を考えると、到底小早川軍に届くほどの音量にはならず、非常に疑わしい。この為か、一部のドラマ等では、銃ではなく大筒(大砲)が撃ち込まれる展開になっているのもある。


小早川秀秋は暗愚だったか?編集

秀秋への悪いイメージは昔から付きまとっており、「優柔不断で暗愚、人望も薄く一門の長でありながら兄たちに劣る」と酷評されていた。しかしながら、朝鮮出兵で武功を立てたことに加え、岡山藩主として家老たちの補佐を得ながらも無難な執政ができており、領民からも慕われていたという。

また、関ケ原の戦いが集結した後も、命令違反によって主君である加藤嘉明の怒りを買って出奔し、奉公構を出されてしまった事で牢人にならざるを得なかった塙団右衛門を、その立場を気にせず召し抱える等、優しさを覗かせる秘話もあったりする。


無名の若者が天下人・秀吉から(義理の叔父とはいえ)寵愛され、名将・小早川隆景の養子となり三十万石以上の大名となるという恵まれ過ぎた境遇から、それに不快感や妬みを持つ人物がいてもおかしくは無かったと言え、そうした評から彼を一概に暗愚と扱う説には疑問が呈されている。周囲の嫉妬と価値観の変遷が数百年に渡り、更には最終的に敵対した三成の再評価や美化が行われた結果、「愚将・秀秋」の評を強固に後付けした、とも十分見られるのである。

これは、三成の敗北を予想しながらもさらに家康とも親しかったにもかかわらず三成との友情に殉じた大谷吉継との対比という説もある。


そして何より「早死してしまった」と言うのが最も大きい。「死人に口なし」とはよく言ったもので、本人が死んだ上にお家断絶となれば、誰も反論する者がいない(子供がいないまま早死してしまった上に家臣は全て失職し離散したため、擁護しようという子孫や遺臣もいなかった)。

その上「大谷吉継の呪いで死んだ」などと言う、いかにもセンセーショナルな理由付けもされてしまえば、もはや説が広まるのは誰も止められない。実際に小早川浪人は再就職にも苦労したとされ、こうして秀秋は「戦国最大の裏切り者」と言う濡れ衣を着せられ、今日に至るのである。


小早川秀秋と家臣編集

関ケ原での行動が全部秀秋の独断だったかといえば、それは否である。

当時の大名家の上層部は藩主と重臣の合議制であり、いかに藩主といえど重臣の反対を押し切ってまで意思を貫き通すことはできない。これは藩主の力量にも左右されており、織田信長や豊臣秀吉といったレベルであれば独断で押し通すことができたが、逆に無能や幼君の場合には藩主はお飾りで、重臣たちの合議制で回っていくことになる。

関ケ原戦の秀秋は19歳であり、幼年ではないものの重臣たちの意向を無視することは無理だったと思われる。実際、この時の家老は稲葉正成と平岡頼勝で西軍東軍の調略は2人にまで及んでいたのである。このため、秀秋は西軍を応援したかったが重臣たちの間では東軍支持でまとまっており、秀秋も逆らうことができなかったという仮説も成り立つ(まあ心情的には、彼も東軍寄りであったと考えた方が自然だが)。

戦後、稲葉正成は追い出され、他の重臣も上意討ちにされる一方で、新規に取り立てられた家臣もいて軋轢を生んでいるところを見ると秀秋も独裁を望んでいたのだろう。形になる前に病死してしまったが。このため「死人に口なし」ということで全ての責任を秀秋一人に押し付けたともいえる。

ちなみに、徳川幕府で権勢を極めた堀田家は、元は秀秋の家臣だった。


アルコール中毒について編集

先の通り、秀秋は幼少期から酒浸りの生活を送っており、その酒に命を奪われている。

これについて、近年の研究で史料からたびたび奇矯な行動をすることが関ケ原以前からあったことも判明しており、幼少期から既にアルコールによって脳の萎縮が始まっていたことを意味するのでは、と一部から注目を集めている。


古くからの講談等では「関ケ原で散った武将の怨念に魘され、発狂の末に突然死した」とされるが、仮にこれが重度のアルコール中毒による幻覚症状だったとすると、ただのフィクションと片付けるにはなかなかに生々しい最期ではないだろうか。


最後に―― お酒は20歳になってから。お酒は美味しく適量を。


創作においての扱い編集

関ヶ原の戦いで西軍を裏切り東軍に寝返ったという印象が強いため、小早川秀秋は卑怯者優柔不断というイメージが強く、大河ドラマやアニメ・ゲームなどの創作でもそれが反映されていることが多い。

肖像画では下がり眉で若くして亡くなっていることから、「気の弱い若武者」のイメージを受けている。それでも若くしてそれなりの戦果を挙げている事実もあり、悲運の若者、秀吉の暴走による被害者、服装(主に陣羽織)が妙にかっこいいなどという理由から、テレビドラマやアニメ、ゲームなど、あらゆる創作で人気である(伊藤誠と同じく不人気の裏返しという説もある)。

また裏切りの衝撃とその後の末路のために見逃されがちだが、彼自身大組織を離反する傍系後継者という主人公的な要素が強い経歴の持ち主であることも人気の一因か。


戦国無双編集

やんでれ秀秋さん

小早川秀秋(戦国無双)

武器:2~4まで槍(ただし2の裏切りムービーでは刀を所持)、刀剣(4Empries)

CV:岡本寛志(chronicle 2ndまで)


秀秋を・・・裏切り者の軟弱者と呼ぶな呼ぶな呼ぶな!」(Empでの特殊セリフ)

怯むなー、鉄砲より叔母上の方が恐いぞ!」(2の関ヶ原乱入)

叔母上の方が恐い、味方にはなれぬ!

我らの敵は三成だ、これより西軍を攻めるぞ!」(3の裏切り時台詞)

叔母上!?いや、今、叔母上にお味方しようと…!」(3猛将伝:ガラシャの章・関ヶ原の戦いより)


2から初登場。普通のシナリオだと史実通りに西軍から東軍に寝返るが、叔母のねねに頭が上がらず、彼女が関ヶ原の戦いに乱入した際には西軍でも東軍でもなくそちら側についた。島左近に非難されようと「我らは東軍でも西軍でもない、ねね軍だ!」と言ってのけ、布施孫兵衛に銃撃されようと服部半蔵に脅されようが、ねねを裏切らなかった。(秀秋曰く叔母上の方が怖いとのこと)ねねに頭が上がらないというのは後続の作品でも受け継がれており、戦国無双3猛将伝ガラシャの無双演武の関ヶ原乱入ではねねと接触しガラシャ達に味方(その際につられて小川祐忠脇坂安治が味方についた)、戦国無双chronicle2ndでもねねに見つかり半ば強引に味方した。また豊臣秀吉の外伝の関ヶ原では、裏切らずに頑張りましたと言っている。(皮肉なことに、島津や立花が秀吉の生存を知って弄ばれたと激怒して東軍に寝返ったのにたいして、史実で内通していた吉川広家と彼は裏切らなかったのであった)


なお2の伊達政宗の外伝や3の明智光秀の章や4-Ⅱではプレイヤー側に寝返ることがない。2はとあるかくし球の存在から寝返らずに西軍として奮闘、3では他のシナリオと同じく西軍に属すが、何故か西軍が有利と判断して裏切ろうとしない。4-Ⅱでは西軍シナリオは裏切りを阻止できず(例え吉継シナリオでも)、東軍シナリオでの末路は「砲撃開始直後で吉継に処断される」または「既に説得されてきれいな秀秋になる」。


4Empriesでは固有武将の1人として登場し、武器が変更されて登場した。

また、GREEで配信されていたソーシャルゲーム100万人の戦国無双にも登場した。


戦国BASARA編集

名称:小早川 秀秋

詳しくはこちらを参照。⇒小早川秀秋(戦国BASARA)


采配のゆくえ編集

その時歴史を動かした少年

詳しくはこちらを参照。⇒小早川秀秋(采配のゆくえ)


殿といっしょ編集

おねの甥であり、目元がやや似ている。

とてつもなくのん……………っびりした青年で、度を越した優柔不断であり、関が原の戦いでどちらにつくかを花占いで決めようとするなど恐ろしく決断力に欠ける。そのあまりのノンビリ屋ぶりは、本作屈指の我慢強さを持つ家康ですら「どうしよう ワシこれ以上待たされたらあいつを鉄砲で撃ちかねん」と言わしめているほど。


戦国武将姫MURAMASA編集


紫髪ツインテオッドアイのロリ娘(イラスト右)。

ゲーム中では宇喜多秀家(イラスト左)との関係がクローズアップされている。

まだ羽柴秀俊と名乗っていた頃は、一緒に豊臣秀吉が開いた吉野の花見に参加するなど秀家らと親交があったが、秀秋が関ヶ原の戦いで西軍を裏切った事で関係は断絶、深い恨みを買う事になる。ここまでは(キャラデザを除いて)史実通りである。

しかし2013年夏に開催されたイベント「宇喜多の夏日記2」にて、八丈島に流されて一人寂しく余生を過ごしている宇喜多の元に、秀秋が船で尋ねに来るというシナリオが展開された。宇喜多は秀秋の謝罪を受け入れ、再び友として秀秋を迎えて共に夏を過ごす。

しかしこのシナリオには、プレイヤー達から不穏な予測が建てられる事になった。

  1. 時期的に考えて、宇喜多が八丈島に居る時点で秀秋は既に死去している
  2. 秀秋のカード名が「精霊船」、スキル名に「弔鐘」、秀家との特定連携名が「盆の迎え火」
  3. イベント最終日、公式twitterでの秀秋の「これが最後の裏切り」と言う呟きと、姿が見えなくなった秀秋を必死に探し回る宇喜多の様子

これらから導き出された答えは、「秀秋は既に死んでおり、精霊船に乗った魂がお盆の期間だけ宇喜多に会いに来た。盆(イベント)が終われば秀秋はあの世へ帰り、宇喜多は再び友を失って一人ぼっちに戻ってしまう。」というものであった。

しかし実際にイベントが終わってみると、そこには元気に宇喜多と海の家を営む秀秋の姿が!

「さんざん思わせ振りな演出をしておいて投げっぱなしかよ!」と困惑するプレイヤー達はやがて気付く。秀秋が裏切ったのは、プレイヤー達が予測した悲しい未来だったのだ。


MUSASHI-GUN道-編集

名前忘れたPart3

MUSASHI -GUN道-』にも登場。声優は武藤正史

関ヶ原の戦いの功労者だが捕えられてしまい、それを根に持ち徳川幕府に復讐をしようと考える。

ムサシの持ったGUN鬼の銃を奪った直後に精神をGUN鬼に取りつかれてしまい暴走。その後、銃はムサシの手元に戻るが小早川はヤシャに連れ去られてしまい以降、物語から姿を消す。

「何故後ろに月が!?」「皆殺しだアヒャヒャヒャヒャ!!」といった迷台詞と声優の怪演も相まってか放送当時はカルト的人気を引き起こした。ちなみになかなかのハンサムボーイである。


風雲児たちシリーズ編集

あわわわわ……家康は恐いが鉄砲はもっと怖い! み、みなのもの、せえぐん(西軍)をせめよ~~っ!!


うぎゃあああぁぁぁ! 迷うて出たか石田三成!

わしは、恨まれるおぼえはないぞっ!!!!


こちらは漫画家のみなもと太郎氏が書いたバージョンで「(超)アホだった」説を採用し、「本人の肖像画」に「坂田利夫と言うかアホの坂田」を混ぜたデザインで、外見どおりのアホである。

これは史実(というか当時の通説)通り(なのが、さらにみなもとギャグの一環として誇張された状態)なので他のに比べたら、さらにメチャクチャだが、みなもとさんだから仕方ない。

一応関ヶ原の戦いで重要な仕事を為した上に、戦後処理でひどい仕打ちをされた(がアホだからそれが解らなかった)悲劇の男としても描かれる。

興味があるなら風雲児たちシリーズにも是非目を通して貰いたい。


関ヶ原合戦で西軍から東軍に寝返ったシーンでは従来の「家康による脅しの射撃にビビって寝返った」という説が表面上は採用された。その結果として宇喜多秀家に思いっきり恨まれている(のちに秀秋が岡山に入った事を知った秀家は取り乱しつつ激怒して後先を考えず秀秋を殺りに行こうとしたのを、ついてきた家臣たちに止められた)。

少しだけ頭がマシになった今際の際に西軍を裏切った理由を「わしは太閤殿下(秀吉)に最初の方こそ大事にしていただいていたが、秀頼様が生まれてからは家臣からすら見向きもされなくなってしまった。自分の都合で簡単に人への態度を変える太閤殿下(と、その取り巻きたち)が憎かった」と語っている。

秀秋の訃報は当時に八丈島へと流された秀家に伝わり彼を歓喜させると共に「わしは誰よりも長く生き残っちゃる!」という決意を抱かせるに至る。ある意味では作内で秀家を「関ヶ原最後の生き残り」にしたキーパーソンでもある。


影武者徳川家康、SAKON編集

こちらは軽薄暗愚を地で行く秀秋になっている。(本物の)家康に殴られたり、三成の一喝に取り乱し吉継の形相を思いだし乱心するなどどうしょうもない小物に描かれている。また越前召し上げも女子供への虐殺行為を武功と報告したことで秀吉の逆鱗に触れたためとされる。


関連タグ編集

関ヶ原

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