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概要編集

塙団右衛門とは、戦国時代武将


出自は不詳で、様々な説がある。

豊臣秀吉朝鮮出兵の際に加藤嘉明に召し抱えられ、武功を上げたことで、鉄砲大将に出世し、元の名前から「塙 団右衛門」へと改名した。

しかし命令を無視し、加藤嘉明に叱責されたことに腹を立て出奔。その後何人かの元を転々とした後に、大阪冬の陣から豊臣秀頼の元につく。翌年大阪夏の陣にてあっけなく討ち死にした。

数々の武功をあげた勇者であったが、酒乱であり、また当時の武将らしく承認欲求が強い人物でもあったが、漢詩を書くなどの教養人の面も持っていた。


経歴編集

当時、刀や槍、弓に比べて、鉄砲の扱いは短期間で習熟出来るという利点があった反面、鉄砲による遠距離射撃だと敵を討ち取った事を証明するのが困難であったとされている。

それ故に、武将の多くは足軽達に使わせても自分が鉄砲を使おうとする事は少なく、その中でも功名心や承認欲求が並外れて強く、独り善がりな面も目立っていたとされる団右衛門は、大の鉄砲嫌いの武将として有名であったとされている。


朝鮮出兵で嘉明の配下として武功をあげる。

慶長5年の関ヶ原の戦いでは鉄砲隊を率いて戦う事に強い不満を抱いた結果、鉄砲隊を指揮するどころか、嘉明の命令もなしに自ら槍を引っ提げて前線で戦う有様で、これが嘉明との確執の原因となり、どんな勇士であろうが自身の命令を尊重しない者よりは、勇士でなかろうと尊重する者を評価する嘉明に「小さな水に留まらず、鴎は天高く飛んでいく」という内容の漢詩の絶縁状を置いて団右衛門は出奔した。

激怒した嘉明は黒田長政後藤又兵衛に行ったように奉公構を出して嫌がらせをするが、団右衛門はそこは嘉明より格上の豊臣秀吉の甥にして小早川家の長である小早川秀秋に仕官する。だが貰った役職はまたもや鉄砲大将であった。

慶長7年に秀秋が病死してお家断絶となった為に、今度は徳川家康の息子松平忠吉に仕えるも、こちらも慶長12年に病死してまたもやお家断絶となり、次に福島正則に仕えるが、そこは朋友の正則は同格という事で嘉明が奉公構を持ち出し解雇される事となる。

これらの不運な仕官の結末には強気な団右衛門も流石に落胆したようで仏門に入るも、脇差を腰に差した物騒な僧であったという。

大坂の陣では還俗して豊臣秀頼の元に馳せ参じ、慶長19年の冬の陣で蜂須賀至鎮の陣を夜襲して武功をあげた。その折に「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書かせた木札を辺りにばら撒かせて自身をアピールする彼らしい行動をとっている。

慶長20年の夏の陣では紀伊を攻略せんとする大野治房の軍にあり、4月29日の樫井の戦いで岡部大学と一番乗りを争い、競争に勝ったのは良いが突出し過ぎて敵の浅野長晟の軍勢内に寡数で孤立するという彼らしい失敗を犯して討死を遂げた。

この折に漢詩の辞世の句を詠んだとも言われる。


その後、彼の子孫は出雲国(島根県)へと移り住みたたら製鉄を家業として大成し、現在では「櫻井家」をはじめとする彼の子孫の家系が「たたら製鉄御三家」として語り継がれている。



関連タグ編集

塙直之 加藤嘉明 豊臣秀頼


VIVANT:彼の子孫の家系である「櫻井家」をモデルとした「乃木家」が登場。

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