生没年 1580(天正8)年~1607(慶長12)年
幼名 福松丸
江戸幕府初代将軍・徳川家康の四男で、二代将軍で家康の三男・秀忠の同母弟。正室は井伊直政の娘・政子。
生涯
1歳の時に分家の東条松平家当主・家忠が死去した為、家督と三河東条(愛知県西尾市)1万石を領し、諱を祖父・松平広忠と父・家康より1字ずつ拝領し「忠康」とした。また翌年には甲州征伐で徳川氏が新たに得た、駿河沼津(静岡県沼津市)へ4万石で移封する。
1592(文禄元)年に武蔵忍(埼玉県行田市)10万石を与えられると同時に、元服し名を「忠吉」に改めた。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、舅の井伊直政と共に負傷しつつも西軍の島津豊久を討ち取る戦功をあげる。
この功績によって尾張清洲(愛知県清須市)52万石へ加増移封され、官位も従三位左近衛中将まで進むが、1604(慶長9)年ごろから病気がちになり、1607(慶長12)年に江戸に下向し家康・秀忠と最期の面会をした後の3月5日に死去した。享年28歳。
嫡男が早世した為、清州藩は異母弟の五郎太丸(のちの徳川義直)が跡を継ぎ、さらに居城を名古屋城へ移動したことで、後の徳川御三家筆頭・尾張徳川家が成立することになる。