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概要編集

第五代江戸幕府征夷大将軍


儒教の思想に基づいた政治をすすめ、その治世の前半は江戸文化の代表「元禄文化」が生まれ、善政として「天和の治」と称えられている。しかし、佐渡金山の金の産出量が減り続けているのに幕府は膨大な支出を続け財政難となり、財政再建を図るため貨幣改鋳(質の低い小判を作るというインフレ政策)により庶民の生活は物価高で圧迫され、治世の後半においては「生類憐れみの令」と呼ばれる動物愛護政策が町人の非難の的となり、ついたあだ名が「犬公方」となった。


綱吉の治世において赤穂浪士による吉良家討ち入りが起こったが、喧嘩両成敗による切腹という処断には綱吉の秩序重視の思想がよく現れている。が、その一方で自分は気まぐれな大名取り立てと改易や、柳沢吉保をはじめとする大老や側用人を重要しすぎて彼らの専横を助力してしまうという秩序破壊行為も行っている。それらの事により、一般的には暗君とされる事が多い。


擁護論編集

主な擁護論として、先代の徳川家綱時代から推進されてきた「文治政治」の反映であるというものがある。これは、戦国時代野蛮暴力的な気風を排除し、徳と秩序を重んずる政治である。

この立場からすると、生類憐みの令についても「戦国の気風を残す殺伐とした世相を、生命を大事にする太平の世へと変革した」と評価される。


事実、この令が発布されるまで、戦国時代が終焉を迎えたにも拘らず日本各地は中世以来の「婆裟羅」「傾奇者」を気取った秩序を軽んじる風潮や暴挙が横行していた。

江戸の街でも旗本奴、町奴らによる辻斬り刃傷沙汰略奪といった行為が横行し、更には口減らしや間引きを目的とした捨て子や老人の殺害動物虐待、死体放置等といった、生命を軽視し過ぎている行いもまた当たり前の様に起こっていた為に、これらの問題を改善するには多少いき過ぎがあっても止むを得なかった部分があったのも事実である。

綱吉の死後に生類憐れみの令が廃止された後も、無断なの遺棄の禁止や捨て子、病人等の保護は継続されている為、綱吉の方針は一概に否定されてはいないことがうかがえる。綱吉の行いが無ければ、幕末になるまで中世の殺伐とした風潮が続いていたかもしれない。

また、米沢藩の名君として有名で財政難の立て直しに尽力した上杉鷹山も、綱吉の求めた文治政治には敬意を持っていたとされている。


俗に「江戸泰平の世」と言われるが、父・家光の頃までは大規模な事変・乱も度々発生していた。これが収まり、以後幕末近くまで(アイヌの「シャクシャインの乱」を除き)目立った乱が発生してないのは、兄・家綱から綱吉を経て甥・家宣に至るまでの三代の時代に文治政治の礎が築かれた故と言える。


秩序重視であると同時に、適材適所を重視する実力主義者の一面も強い

側用人の制度にしても、重臣である老中・若年寄達と将軍との間の意見調整をするのが仕事なのだから交渉能力が高い人間が必須である。

老中の制度も、其れまでの合議体制からその中から適任者を財務・民政・経済政策の担当に選定する制度を将軍就任直後に改革している。

また、財務・経済政策担当の勘定方や経理監査担当に幕臣限定とはいえ試験制度を導入し、下級の御家人や貧乏旗本でも経理に強い人材を抜擢し、実績次第では勘定奉行にまで昇進させる制度も確立した。

この制度は、後に綱吉派閥であった八代将軍の徳川吉宗によって足高の制として、更に拡充されている。

尤も、名家の出身者の多くにとっては、貧乏旗本・御家人や成り上がり者が自分の上司や同僚としてバリバリ仕事をする様子が面白く無かった事はほぼ間違い無いが(実際、この制度に乗って出世した大岡忠相は同僚に控室から叩き出される等の陰湿な虐めを受けていた)。


インフレ政策についても良貨の退蔵や貿易相手からの苦情等のデメリットが有った事も確かだが、全面的に否定されるものでもない。

そもそも、日本は戦国時代に金銀の精錬法が改善され(それまでは多孔質の凝灰岩製の坩堝で火炎噴射する事で鉛で抽出した金銀を酸化鉛と分離していたのだが、凝灰岩を灰に替えた事で劇的に作業効率が向上した)、綱吉の祖父の秀忠の時代には小判一両≒米一石になるまで貴金属安・穀物高が進行していたが、家光以降に幕府直轄の金銀山の産出が急減し出し、特に最大級の銀山である石見銀山では綱吉の時代には秀忠時代の1/20程度の産出量に減ってしまっていた。

逆に、穀物生産高と人口は新田開発によって秀忠時代より増大していた。

それにも拘らず、金銀安穀物高の秀忠時代の調子で貿易や予算編成をしていたので、貿易決済に使われる銀の流出や穀物価格の下落が著しかった。

以上の状況を踏まえると、小判一両≒米一石のバランスを保ちながらの予算編成簡易化は必要悪の一面もあった。

綱吉の次代の家宣時代に出た意見の中には「元禄以降の物価は家光時代の飢饉の時の記録より更に高いが、餓死者が出ていないのは金銀の流通量が増えて民衆にも行き渡っているからで、インフレは絶対悪とまでは言えないのでは?」と言う評価もある。

家宣とほぼ同世代の吉宗も当初は家康・秀忠時代の慶長金銀の品位に戻した享保金銀を発行していたが、金銀の産出量が減って穀物生産高と人口が増えている状況では米価の暴落→米農家や米で給料を貰っている武士階級の困窮は避けられず、大岡忠相の諫言も有って、止む無く65%の大幅な交換増歩を付ける形で含有金量を57%にした小型の元文小判・一分判を発行している。


元禄赤穂事件に関しても、浅野内匠頭への即日切腹は「朝廷との重大な詮議の場を台無しにされた」ことへの怒りが原因である。今風にいえば、「社運を賭けた大企業との会談で、部下が先方の重役に殴りかかって会談を潰した」といった感じである。こんな事になれば、即時解雇か自主退職勧告もおかしくないだろう。


そもそも、前半の「天和の治」の評価は古来より高く、徳川吉宗も綱吉の治世を目標にしていたという。現代までに起きた富士山最後の大噴火宝永噴火とそれを原因とする一連の災難に対しても、迅速に対応して混乱拡大の抑止に尽力している。しかしこれさえ当時まだ根強かった「天人相関説(君主の不徳が天災を招くという儒教思想の一つ)」に結び付けられ、あたかも「富士山噴火は綱吉の不徳のせい」だと批判する風潮さえ起きている。


因みに、ドイツからオランダに帰化して来日した医師のエルンスト・ケンペルは綱吉を「非常に英邁な君主」と絶賛している。

ケンペル達にオランダ王とバタビア総督の力関係を質問したり、オランダやドイツの文化風習に興味を抱いたりと国際情勢や西欧文化にも無関心では無かった。



徳川光圀との関係性編集

徳川綱吉は名君と評される徳川光圀に幾度か直言を受けており、後世で『水戸黄門』が広く世に伝わると「陰の政敵」として悪し様に扱われてしまう。光圀が『大日本史』を編纂し、綱吉が『易経』を講じるなど、文化的な貢献において類似点があることも、光圀ファンから引き合いに出されて批判される原因となっている。

また、光圀は生類憐れみの令に関しても批判的であったとされているが、これに関してはあくまでも「『法の実地方法が拙かった点についてが問題である』としていただけで、生命を大切にしようとする綱吉の方針や思想自体については否定していない」という見解が、近年では出ている。

何より、先代の家綱が死去し後継者問題となった際、綱吉が征夷大将軍に就任するのを強く推進したのは当の光圀本人である。主な理由として「将軍家の血縁に最も近い者であるから」という物があるが、「野蛮な風潮が未だに燻っていた武断政治」から「徳を重んじる文治政治」へと変革させるには、幼少期より学問に才を持ち尚且つ生命を重んじる慈悲深さを持った綱吉で無ければならないと確信していたのも、理由に含まれていたと思われる。

因みに、農民への課税に対しては綱吉時代の幕府領が28%程度だったのに対して、光圀時代以降の水戸藩は75%以上とも言われており、綱吉時代の幕府領で孤児や母子家庭の公的な後見制度や病人の保護などの行政サービスが向上した事も合わせると、民衆にとっては綱吉の方が遥かに有り難い統治者であった事は事実である


徳川吉宗との関係性編集

後の八代将軍となる紀州藩主の息子・松平頼方は生母の身分が低い上に四男と言う事も有り、父親からも冷遇されており、久留米藩主の有馬家(21万石)の行列に出会った際に「せめて俺も有馬様ぐらいになりたい」と愚痴を溢す境遇であった。

ある日、娘である鶴姫夫婦に会いに来た綱吉は同行していた老中・大久保忠朝からホストとして出迎えた鶴姫の夫である綱教とその弟・頼職には末弟が居てこの場には同席させられていない事を聞かされる。

自分も末息子だった上に生母の身分が高いとは言えない綱吉は頼方をその場に呼ぶように綱教に命じ、後日、藩主不在の空き地になっていた越前・葛野3万石に分家させる手筈を整えた上に、従四位下左近衛権少将としての官位も斡旋して徳川一門の集まりにも出席出来る様に取り計らった。

その後も綱吉は頼方を厚遇しており、綱教、頼職の死後に紀州藩本家を継いだ頼方に自分の偏諱を与えて”吉宗”と名乗らせている。

綱吉に可愛がられていた吉宗は次代の家宣とはあまり折り合いが良く無く、病床に伏した家宣が「息子の後見人を尾張殿に任せるのはどうか?」と腹心の新井白石に公的に諮問している程である。

吉宗は最期に「廟所を新設するよりも綱吉様の横に葬って欲しい」と息子達に頼んでおり、本心から綱吉を敬愛していた事が窺える。

尤も、綱吉時代に漸く洗い出し体制が整った財政・経済問題は宝永の富士山噴火や享保の大飢饉(豊作になりそうな天候だったので食糧不足の危機に対して完全に油断していたタイミングで害虫の大襲来が起こった)、金銀産出の綱吉時代からの半減等もあって更に悪化しており、幕府領の年貢課税率は綱吉時代の28%から50%に増税せざるを得ず、尚且つ絹糸の品質向上やサツマイモなどの救荒作物、綿や菜種等の換金作物の生産増大による農家の現金収入増加政策も始まったばかりだったので、其れまで殆ど幕府領では起こらなかった一揆や打ち壊しも吉宗からその子の家重の時代に激増している。


文化面での功績編集

隠れた功績として「」文化の保全にも貢献している。

能好きの血統である徳川一族でも希代の能好きで知られ、「能狂(のうきょう)」とまで評された。

あまりに好きすぎて、人前でよく披露し、諸大名や側近に無茶振りで能舞を演じさせたり、能業界の事情に積極的に首を突っ込んでみたり、能役者を士分に取り立てて格上げしたり、稀曲・珍曲といわれる滅多に演じられない題目の復興に熱を入れたりと、「能狂」と評されるに能う「能オタク」である。

その甲斐あってか、元禄時代には衰退していた41演目を復活させ、今でもうち20演目が存続している。


現代のイメージ編集

現代において綱吉の活躍の場は、綱吉を憎まれ役に抜擢する『忠臣蔵』と『水戸黄門』という、今や時代劇鉄板なった二枚看板が筆頭に挙がる為、劇中のイメージそのままに「嫌味な人物」「悪い殿様」としてマイナスイメージを持ってしまう人も多い(ヒーロー扱いされる戦国武将である真田幸村石田三成直江兼続と対立した初代の徳川家康に近い扱いと言える)。

ただし、TBS版『水戸黄門』における綱吉は(史実に忠実にあろうとした石坂版をはじめとした一部のシーズンを除き)時に柳沢吉保などの暗躍に翻弄される事はあれど、民の事を思いやり、光圀とも良き相談役として信頼関係を築くなど、比較的名君寄りに描かれている。


テレビドラマでの演者編集


この時の萩原の怪演によって癖のある人物という印象を残している。



関連タグ編集

日本史 江戸時代


大河ドラマ


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