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生類憐れみの令

しょうるいあわれみのれい

江戸時代において五代目将軍徳川綱吉が発令した、極端な動物愛護法。
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概要編集

従来の評価編集

江戸時代前期において、5代将軍徳川綱吉が制定した極端な動物愛護法。

一般的には動物、とくにを守ることがクローズアップされがちだが、実際は「生類を憐れむ」こと全般が主題であり、犬以外の動物や、人間の子供、老人の保護も目的としている。

罪人の取り扱いを改めて牢を清潔にせよという通達や、犬猫の死体は放置せずに埋めるように命じる通達などもあり、衛生目的の掟も見られる。

また、農作物を害する鹿や猪は殺しても良い(ただし、その肉を売った場合は処罰される)とする通達もある。


違反者への処罰での極刑では追放や流罪がなされたとされる。

また「犬小屋」や「御囲」と呼ばれる犬の収容施設が現在の大久保四谷に設置され、とくに中野区の犬小屋は16万坪の最大規模を誇った。単なる保護だけでなく、危険な野犬対策として設けられた。


令は、月日が経つごとに内容がエスカレートしていった。保護の対象となる動物は、猫や鳥にまで拡大し、ついには、蚊やノミなどの虫を含むありとあらゆる動物が殺めてはいけない対象になったのである。


綱吉が死ぬまで行われ続け、国民の生活にも大打撃を与えたことで「天下の悪法」と評され綱吉の評価を下げる一因となっている。

後述するように、最近の研究では再評価される面もあるが、少なくとも当時の庶民の評判はあまり良くなかった。そのため、次の将軍徳川家宣は、生類憐れみの令を廃止した。ただし、牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護など、一部の法律はそのまま継続されている。


再評価編集

一方で近年では儒教に基づく文治政治の一環であるとして、またのちに出た「捨て子禁止令」「病人の保護」「牛馬遺棄の禁止」が綱吉の死後も続いたことから子どもを遺棄することが許される社会から許されない社会への転換点となったとして再評価がなされている。


元より、室町時代以前の風紀や戦国時代を経て血気盛んだった日本人が、極端な法律を経て道徳を重んじる温和な民族に変わるきっかけになったとも言われ、俗に江戸時代を指して言う「太平の世」を作り出す礎になったとも考えられる。


また「蚊やノミを叩いただけで処罰された」などの言い伝えは、現代の研究では、事実ではないと考えられている。生類憐れみの令が施行されていた24年間で、実際に処罰された例は69件であり、うち極刑になったのは13件という研究がある。


また、犬に吠えかけられて、やむなく刀を抜いて犬を斬って追い払った武士の事例があるが、これは「不意のことであった」として無罪放免となっている。


背景編集

第4代将軍徳川家綱には子どもができず、弟であった綱吉が家綱の養子となり、第5代将軍とった。

しかし、綱吉には娘がいたものの、後継ぎとなる息子がすぐに死んでしまった。

儒学を重んじていた綱吉は「親を大切にせよ」という儒学の教えを鵜呑みにし、母桂昌院が帰依していた隆光僧正の「あなたは前世で人を殺してしまったからこれからは命を大切にすること」「特にあなたは戌年であるため犬を大切にせよ」という勧めで発布したという説が知られていた。


しかし、上記の説は、研究が進んだ現代では、かなり疑わしいという評価となっている。

その理由は、隆光が重用された時期と、生類憐れみの令の発布時期にズレが有るためである。


関連項目編集

  • 徳川綱吉
  • 徳川光圀:生類憐れみの令に批判的な立場であったとされているが、全面的に否定していた訳では無いという見解も近年では出ている。
  • ニホンオオカミ:オオカミや野犬も保護対象となり、人里に現れても殺処分は禁止された。このことは狼害の増加をもたらし、一転して令が廃されると駆除数が増加した。加えて狂犬病が流行したことで絶滅に繋がっていく。
  • 徳川家綱:綱吉の前代の将軍。生類憐れみの政策は、家綱の時代にはすでに始まっていたという説がある。

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