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概要編集

生没年 寛永18年8月3日(1641年9月7日)~延宝8年5月8日(1680年6月4日)

 江戸幕府・第4代征夷大将軍。第3代将軍・徳川家光の長男、幼少のころより病弱な人物であり、温和な人柄であったことで知られる。弟に第6代将軍・徳川家宣の父・綱重、後に5代将軍となる徳川綱吉らがいる。


島原の乱慶安の変編集

 寛永14年(1637年)、父・家光の在世中、藩主の圧政に苦しんだ農民が島原(長崎)・天草(熊本)に一揆を起こし、これに弾圧に苦しむキリスト教徒と藩の取り潰しによってあぶれた浪人たちが呼応、幕府は老中・松平信綱みずからが軍勢を率いて乱の鎮圧に臨み、敵味方ともに多くの死傷者を出す凄惨な結果となった。(島原の乱)

 

 慶安4年4月20日(1651年6月8日)、父・家光が死去し、長男・家綱が11歳で将軍職を継いだ。しかし、その間隙を縫い軍学者・由井正雪が浪人を集めて幕府転覆の謀議をめぐらしていたことが発覚、幕府は鎮圧に追われることとなる。(慶安の変)

 島原の乱と慶安の変にはもちろん直接の関係はないが、両方の事件に浪人が多く加担していたことに幕府は衝撃を受け、これまでのむやみに藩を取り潰すような武断的な政治を緩め、儒教の考えに基づく文治的な政治へと転換を図っていくこととなった。

将軍家綱を支えた人々編集

 11歳にして将軍に就いた家綱を支えたのは、また、父・家光に重用された人々であった。

 代表的な例としては大老酒井忠勝、父・家光の異母弟であり忠実な補佐役である会津藩主・保科正之、老中・松平信綱、阿部忠秋ら多くの幕閣が支えることなった。


明暦の大火(振袖火事)編集

 明暦3年(1657年)、江戸城天守閣をも焼きつくす大火が起き、死者10万を超す大惨事となった。

 この大災害に将軍・家綱を後見する保科正之は「戦の世が終わったこの世に天守閣など不要」と発言、天守閣の再建をあきらめ難民の救済に動いている。


家綱死す編集

 これらの例にみられるように、治世の晩年にいたるまで家綱が強権を発することはなかった。

 延宝8年5月8日(1580年6月4日)、将軍・家綱は40歳で死去した。世継ぎとなる子はおらず、「下馬将軍」との異名をとる大老・酒井忠清は「鎌倉幕府の例にならって朝廷から宮様を迎え将軍としよう」と主張、これに反対して「家綱の弟・綱吉を次の将軍に迎える」ことを主張したのが老中・堀田正俊であった。

 正俊は病床の家綱を説得、家綱は次期将軍に綱吉を指名して死去し、これによって徳川家による将軍継承は守られることとなった。


関連タグ編集

江戸時代 江戸幕府 徳川家光 徳川綱吉


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