概要
中世(英:medieval)は、古代と近世、近代の間を表す歴史区分。元々はルネサンス時代に提唱された概念であり、優れたギリシャ・ローマ時代(古代)と、その復興(すなわちルネサンス)を経た近代の間に挟まれた暗黒時代という意味があった。
本来はヨーロッパ独自の歴史用語であるが、便宜上、同時期の他地域も中世の時代区分で呼ばれることがある。
日本の中世は、中国など他のアジア諸国よりも欧州のそれとよく似た要素が目立つことから、「中世があるのは欧州と日本だけ」と言われることもある。具体的には、封建制のもと多重化した土地の支配権、王権・軍事貴族(日本は武士、欧州は騎士)・宗教権力(日本は神社や寺院、欧州はカトリック教会)の併存などが挙げられる。もっとも、似ているとはいえ日本と欧州の中世は全くの別モノであることにも注意しなければならない(例えば、武士と騎士は確かに似ているが、細かく比較すると違う部分も多い)。
中世日本について、西洋ではそのまま「medieval Japan」と表記されることもあるが、「feudal Japan」(封建時代の日本)として江戸時代も含めて中世的な時代として理解されることも多い。幕末の開国後、日本を訪れた外国人は幕藩時代の社会のそこここに見られた「(西洋の)中世的」な要素を指摘している。
単純に「古臭い」と言った意味合いで「中世的」などといわれることがある。
といっても、それはしばしば現代の目からみての古臭さであり、実際の中世とは異なることも多い。例えば、しばしば「中世の魔女狩り」などといわれるが、大々的な魔女狩りが展開されるのは近世に入ってからであり、中世には魔女狩りがあったとしても散発的なものでしかなかったことが分かっている。
ヨーロッパ
詳細は中世ヨーロッパを参照。
大雑把に言えば、国家よりカトリック教会が権力を持っていた時代である。銃器がさほど発達しておらず、甲冑をまとった騎士が活躍していた。
中世はローマ帝国の崩壊とともに始まる。優れた文明人だったローマ人はキリスト教にのめり込んで古代文化の遺産を捨て去った上、「野蛮」で「遅れた」ゲルマン人どもに支配され、戦乱が相次ぎ、東欧には偽ローマ帝国である東ローマ帝国が君臨し、ヨーロッパ全体は「暗黒時代」へ後退していった……というのが長らく西欧で主流だった歴史観。
だがこうした見方も現在では色々と修正され、昔のように「暗黒」でくくられることは少なくなった。
古代末期のゲルマン人の西欧への侵入は、ローマ帝国の支配による地中海世界の崩壊をもたらしたが、5世紀から10世紀の中世前期を通じて、ローマ文化の遺産は多くのゲルマン人たちにも受け入れられた。ゲルマン人の侵入はローマ帝国軍と戦いながら進められた面もあるが、同時にローマ帝国軍でゲルマン人と戦ったのもまたゲルマン人の傭兵や将軍であった。さらに東ゴート、西ゴート、ブルグンド、ヴァンダル、フランク、ランゴバルトなどのゲルマン人国家は、ローマ皇帝から支配権を認められることで成立していたのである。ローマ帝国皇帝に支配の正当性を求める考え方は、8世紀のカール大帝による西ヨーロッパ統一と、800年の神聖ローマ帝国皇帝就任まで(彼は東ローマ皇帝ではなくローマ教皇レオ3世により帝冠を授けられた)続く。
11世紀から13世紀の「中世盛期」には大幅な人口増とドイツ騎士団の東方への入植によりカトリック世界が東方に大きく拡大。一方で東西教会の分裂(カトリックとコンスタンディヌーポリ総主教の相互破門)、そしてモンゴルによる侵攻と十字軍の遠征などの大きな社会変動に見舞われた。
西欧世界は、14世紀の黒死病と大飢饉によるカタストロフにより中世後期へと移行する。教会大分裂によりローマ教皇の権威は弱まって各国の君主が力を持つようになった。各国でロンドン・パリ・フィレンツェ・ヴェネツィアなどの都市が成長し、「ドイツ人」「フランス人」「英国人」といった国民文化を見直すナショナリズムの概念が生まれるとともに、北イタリアを中心に古代文化の見直し(ルネサンス)が盛んになる。15世紀には東方ではコンスタンティノープルが陥落しイスラム教徒たちが東欧に侵入する一方、イベリア半島ではカトリックによる国土回復(レコンキスタ)が完了し、宗教改革や大航海時代を経て近世へと繋がっていった。
我々の知る欧州各国の国民文化は中世盛期に形作られ、後期に確立したと考えても差し支えない。
なお、日本でも世界各国でもサブカルチャーにおける「中世ヨーロッパ」のイメージは中世後期から近世にかけてのイメージを強く反映していることが多く、中世初期の印象は薄い。
日本
日本では平安時代の後期(院政期または平家政権以降)から室町時代(織田信長上洛まで)を中世と区分することが一般的である。寺社勢力が大きな権威を持っており、武士の勃興した時代でもある。鎌倉時代までは西日本を中心に貴族もなお実権を持っていた。
日本における中世の開始は、律令制の崩壊とともに始まる。延喜14年(914年)、三善清行が『意見十二箇条』を醍醐天皇に提出し、律令通りに税を徴収することが全く出来ていないことを率直に語る。律令税制の根幹、班田収受は延喜2年(902年)で停止してしまっていた。これに代わって諸国から税収を得るのに用いられたのが、有力貴族が主導し現地の豪農や武士が実施する荘園であった。もちろん、領主が有力貴族だからといって農民たちが素直に税を支払う保証はない。税収を保証していたのは現地の武士たちの武力であった。
平安時代後期、京都では華やかな貴族文化が続いていたが、地方では武士が台頭し、実質的には中世が始まっていたのである。やがて藤原道長が源頼光を重用するなど、摂関家の威光を背負って河内源氏がみやこの政治に進出していく。続いて後白河法皇が伊勢平氏の平清盛に政権を委ねる(平氏政権)。武家政権の時代の幕開けである。平氏政権は短命に終わるものの、平家を下した源頼朝は鎌倉殿として東日本を支配した。後鳥羽上皇のクーデターを機に朝廷を制圧した鎌倉方は、朝廷の支配権が強固だった西日本をも掌握し、武家政権による全国一元支配を確立した。
中国
かつては内藤湖南ら京都学派による魏晋南北朝時代から唐後期・五代十国時代までを中世とする議論と、西嶋定生ら東京学派による唐までを古代、宋から清までを中世とする議論の論争があった。しかし、しょせん「中世」というのは欧州史のアナロジーに過ぎないため、近年はより細かい時代的変化を捉える精緻な議論が主流になっている。