概要
宗教改革とはマルティン・ルターやジャン・カルヴァンなどがカトリック教会によって腐敗したキリスト教のありかたを正そうとした運動である。後に彼らの行動はプロテスタントという新たな宗派を生むことになった。
経緯
16世紀当時、教会は財政難だった。度重なる戦争、サン=ピエトロ大聖堂の再建、聖職者による贅沢。それらを賄うため、農民に重税を課していたが、それでも足りなかった。そこで時の教皇レオ10世は思いついた。
「買えば、絶対に天国に行けるようになる紙を売ればよくね?」
こうして販売されたのが免罪符(贖宥状)である。この免罪符はサン=ピエトロ大聖堂建築資金の名目で、ローマ教会の影響下にある地域全体で大々的に発売された。しかし、本来キリスト教においては罪の許しには秘跡の授与や悔い改めなしが必要である。そのため「駄目だこの教会…早く何とかしないと…」と思う人はいた。だが教会の言うことは絶対という時代だったので、誰もがそのことを言い出せずにいた。ところが「この、馬鹿野郎!そんなことをしても誰も救われたりはしない!」と堂々と抗議する人が現れた。その人はマルティン・ルター。修道院出身の大学教授だった。ルターはヴィッテンベルク教会とヴィッテンベルク城内に抗議文を貼りだした。それが九十五ヶ条の論題である。これには
・金さえ出せば罪は消えるという免罪符の販売を行った教会への批判
・さまざまな儀式や寄付の奨励など利益中心の教会のありかたに反対
などといったことが書かれていた。またルターは、キリスト教の教えを守り、社会の秩序を重んじることが最も重要であるとし、個人は、自らの利益を追求することをやめ、秩序に従わなければならない。と訴えた。このような彼の考え方は新たに力をつけてきた地方領主に都合がよく、彼らはルターを積極的に支持した。神聖ローマ帝国皇帝カール五世はルターに対して罰を与え...なかった。何故ならばカール五世を選んだ選帝侯のなかにはルターの支持者がいるからだ。教皇レオ10世はこの現状に怒り、ルターに六十日の間に意見を取り消さなければ破門するという書状を送り付けた。しかしルターは破門状を焼き捨てた。レオ10世はキレてルターに国外追放を言い渡した。国外追放処分となったルターは教皇と対立していたザクセン選帝侯にかくまわれた。その間、ルターは聖書のドイツ語翻訳に取り組んだ。
1524年六月、宗教改革の火は思いがけずも、農民の反乱という形になって燃え上がった。帝国中に広がった反乱はドイツ農民戦争と呼ばれ翌年の夏には農民側の惨敗に終わった。
ルターに刺激を受けて多くの宗教家がローマ教会に対抗して、自分なりの意見を唱えはじめた。中でもスイスのジュネーヴを中心に活動したジャン・カルヴァンの説はヨーロッパ各国に広まった。ルターの教えが諸侯や農民に支持されたのに対し、カルヴァンの説はこの頃ジュネーヴなどで台頭してきた市民の支持をあつめた。カルヴァンの教えはルターの考えを更に推し進め、中世的な教会支配から、より強く抜け出そうとするものだった。後世に与えた影響で重要なものは、まず、人間が救済されるかどうかは神が予め定められているということ、自分が救済されているかどうかという確信は真面目に労働に励むことによって得られることなどだ。
カルヴァンの教えは、その後イギリスやオランダなど、市民が力をつけていった地域で広く受け入れられた。
1526年オスマン帝国軍が神聖ローマ帝国に侵入しようとしていた。皇帝は国内で争っている場合ではないということでルター派の信仰を認め、諸侯の協力を仰いだ。しかし戦いが有料になると1529年、皇帝カール五世はルター派の公認を取り消した。ルター派はカール五世に抗議をした。この抗議のためルター派はプロテスタント(抗議する人)と呼ばれるようになり、後にカトリックに対抗する新教の総称になった。1555年皇帝カール五世はついにアウグスブルクの宗教和議でルター派を認めた。しかし、
・新教に改宗する者は教会に土地を返す。
・領主の決めた宗派に農民は従う。
・公認されるのはルター派のみ
という不平等なものだった。この取り決めの後も、カトリックとプロテスタントの対立は続き、やがて新たなる戦争の火種となった。
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史上最大の宗教戦争であり、史上最初の国際戦争。
自国の利益を優先したフランスを除けばカトリックVSプロテスタントの戦争である。