時代像
西洋
732年、トゥール・ポワティエ間の戦いで、メロヴィング朝フランク王国の宮宰カール・マルテル率いるフランク軍がウマイヤ朝イスラム帝国軍を破る。この戦いと、後述の718年の東ローマ帝国の勝利により、キリスト教世界はイスラムの進撃を止めることに成功した。
768年にカロリング朝フランク王国の王小ピピンが死去、後継のカールが混乱した西欧諸国を平定し、800年にはカールがローマ教皇レオ3世によって帝冠を授けられ「カール大帝」として後世、西欧諸国の鼻祖と称えられた。
8世紀末にはブリテン諸島やフリースラントなど北海周辺においてデーン人の侵入(ヴァイキング)が始まる。
中東
前半はウマイヤ朝の最盛期。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の征服をもくろんだウマイヤ朝は717年から718年にかけてビザンツ帝都コンスタンティノープルを包囲するが、ビザンツ側からのギリシャの火による反撃を受け海側からの包囲は破綻し、さらに背後からブルガリア軍による攻撃を受けたことで包囲を断念する。
750年にアッバース朝がウマイヤ朝最後のカリフマルワーン2世をくだし、イラク周辺を支配する。ウマイヤ朝の残党は、チュニジアからイベリア半島に移って後ウマイヤ朝を建てた。
中国
唐の盛期から後期にあたる(ただし705年まで「周」(武周)を称した)。
690年に、中国史上唯一の女帝武則天(則天武后)が即位し、国名を「周」と改めた。(紀元前の西周等と区別するため、こちらは「武周」と呼ばれる。)
705年に武則天が崩御すると、中宗が復位し国名が再び「唐」に戻るが、皇后の韋后が中宗を殺害し権力を握ろうとしたが、710年に李隆基(後の玄宗)によって一族諸共滅ぼされた。
712年に即位した玄宗は「開元の治」と呼ばれた政治で唐の最盛期を築くが、治世後半に入ると楊玉環に執心するようになり、彼女に貴妃の位を与えて「楊貴妃」とした。
そんな中、755年に将軍安禄山が部下の史思明と共に大規模な反乱を起こした。これが、「安史の乱」である。
最終的に鎮圧されたものの、楊貴妃を失った玄宗は政治への意欲を失って隠居し、そのまま寂しく世を去った。
そして、この安史の乱を境に、唐は次第に衰退へと向かっていくのであった。
中国が誇る2人の詩人「詩仙」李白と「詩聖」杜甫が活躍したのもこの時代である。
朝鮮半島
新羅統一時代の中期にあたる。
日本
710年、元明天皇の時代に平城京へ遷都。聖武天皇の時代の752年に東大寺の大仏が完成した。唐から鑑真が来日し、唐招提寺を建てた。
その後、称徳天皇の時代に弓削道鏡が権力を持つが間もなく失脚。
784年に長岡京への遷都計画が持ち上がったが最終的に頓挫し、その10年後の794年に平安京へ遷都し、約400年に及ぶ平安時代が幕を開けることとなる。
ちなみに、富本銭が登場するまで最古の貨幣とされた和同開珎は708年に誕生した。