楊を姓とする貴妃(皇帝の後宮にある妃の階級の一つ)のことであるが、ほぼ唐の第6代皇帝玄宗の妃である楊貴妃をさす。中国語ではヤン・クェイフェイ(Yang Guifei)と読む。本名は楊玉環でありこちらはヤン・ユィホァン(Yang Yuhuan)と読む。
概説
古代中国四大美人、世界三大美人に数えられる。
唐帝国の蜀の地(現在の中国四川省)生まれ。玄宗の後宮に入り寵愛を得る。
元は蜀州の地方役人の子で、四姉妹の末っ子だった。
幼くして父母が亡くなった姉妹は、孤児となって路頭に迷うかの瀬戸際に追いやられる。
だが叔父が玉環の容貌に美の萌芽を見出し、姉妹を養う事を決め、4人は洛陽へと移り住む。
17歳の頃、玄宗の第18皇子・寿王が成人し妃を必要とすると、役人の接待に当たった叔父は洛陽でも指折りの美少女へ成長した玉環を推薦する。
玉環は芸技に通じ、叔父の教養によって知に明るい才媛へと成長し、その美と才で見事妃の座を射止める。
こうして楊一族は皇族の仲間入りを果たした。
ところが寿王の母で、当時玄宗から一の寵愛を得ていた武恵妃は、野心を起こして寿王への皇位継承を企み、禁中をお家騒動の渦中へ引きずり込んでいく。
禁中は混沌を極め、遂には玄宗も皇子3人を死罪に処す異常事態となった。皇子3人の処刑を以て強制的に事態を収め、元凶である武恵妃は玄宗から遠ざけられる。
禁中の騒動と寵姫の策謀に、玄宗は絶望して3年もの時間を徒に費やしてしまう。
この事態を重く見た玄宗の側近・高力士は一計を案じ、玄宗を皇族の湯治場である華清池に連れ出す。
そこで玄宗は玉環と出会い一目惚れする。
高力士は玄宗が立ち直ってくれることを願い楊貴妃を引き合わせたのだが、本人達の幸せな生活とは裏腹に、この出会いは深刻な国難を招いてしまう。
名君の誉れも高い玄宗は彼女にメロメロになり、これ以降は政治から離れて楊貴妃との逢瀬に熱中する。
そのため奸臣が跋扈し、中でも宰相となったいとこの楊国忠は、北方の防衛司令官であった安禄山と激しい勢力争いを繰り広げる。
安禄山はついに反乱を起こし、楊国忠の送った軍は敗れて長安のみやこも陥落する。これが安史の乱である。玄宗は楊貴妃ら宮廷と軍とを連れて蜀へと逃れる羽目になった。
しかし馬嵬(現在の陝西省にある)という地に来たところで兵士たちが乱の責任者を処分するまで動かないと言い出す。兵隊達にしてみれば、宮廷内の権力争いが引き金となった内乱でこんな目に遭わされたのだから無理も無い話である。元より下々から憎まれていた楊国忠は殺され、楊貴妃も同罪とみなされて兵士たちから処刑を要求される。玄宗は必死に庇うも兵たちは従わず、ついに楊貴妃も縊死(首吊り)による処刑を命じられた。
『旧唐書』によると処刑は「佛室」で、『新唐書』によると「路祠(道端の祠)」の下で、『資治通鑑』によると佛堂で行われたという。この他、刑は梨の木の下で執行されたともいい、宋代初期の伝奇小説『楊太真外伝』では妃が「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言ったため、梨の木の下にある佛堂の前で刑が執行される。南宋時代の『野客叢書』22巻では、『国史補註』や『玄宗遺録』を引用し、刑死に際して彼女は一足の襪(しとうず、足袋の原型となった布製の足衣)を残していったと記されている。『玄宗遺録』によると、楊貴妃の夢をみた皇帝は刑を担当した高力士に「(楊貴)妃が禍(死刑)を受けた時に彼女は一足の襪を残したそうだが、お前は知らないか?」と尋ねて、彼からこの形見の品を受け取ったという。
大局的に見れば楊貴妃自身が特別何をしたという部分はあまりなく、わがままで嫉妬深いことを除けば彼女はいたって普通の女性であった。だが結果的に彼女の存在は安史の乱の遠因となり、唐王朝衰退の起点となったため、傾国の美女とされることが多い。楊貴妃本人がどうこうと言うより、彼女を盲目的に溺愛した玄宗と、それに付け込んで権力を得ようとすりよった輩達がこの結果を招いたので、彼女自身はむしろとばっちりをくらったに等しい。
関連人物
玄宗
楊貴妃を寵愛した皇帝。
唐王朝を最盛期へ導いた名君であったが、生涯で後宮に30人の妃を囲った色男でもあった。
楊貴妃よりも34歳年長で、彼女を貴妃に立てた時は六十歳の老帝であった。
同時に老いとお家騒動の凄惨な結末で疲弊し、晩年は禁中に混乱を招いてしまう。
楊貴妃死後も彼女の絵姿を画家に描かせて、朝夕それを眺めて心を慰めたという。
寿王(李瑁)
楊貴妃の最初の夫。玄宗の第18子。
聖人君子として知られ、玄宗も幼少から才気を覗かせる我が子に期待の念を抱いていた。
母の死後も宮中では根強い皇位継承の声が残っていたとされる。
安禄山
楊貴妃に気に入られて養子となり、権勢を持った武将。ソグド人の血を引いており、弁舌に長けていたという。
楊貴妃と玄宗は形だけの養子扱いに満足せず、彼におしめを穿かせて揺り籠に乗せ、赤子として扱う儀式を行った。史実によれば事件当時の彼はアラフィフで200kg級の巨漢。控えめに言って地獄のような絵面である。誰がこんなビジュアル得するねん。
楊国忠と対立して武装蜂起し、安史の乱を引き起こすが、楊貴妃の死を知って悲嘆した。
楊国忠
宰相として権勢を誇った親族であり、次姉の愛人。
安禄山と対立し、安史の乱の原因となる。
安史の乱の責任追及を受けて、玄宗の部下に殺される。
高力士
玄宗の腹心である宦官。
楊貴妃を玄宗に引き合わせた他、玄宗と楊貴妃が仲違いした時はふたりの仲を取りなした。
安史の乱の際は、玄宗に楊貴妃の処断を進言し説得。自身の手で楊貴妃を縊殺する。
玄宗の崩御を知ったときは慟哭のあまり吐血し、そのまま亡くなったという。
なお寿王の皇位継承を白紙に戻したのも、高力士の進言と言われる。
唐代中期の詩人で、自由闊達な性格と抜群の詩才から「詩仙」と謳われる。
楊貴妃のために詩歌を作ったこともあり、彼女の美容を絶賛している。
白居易
唐代中期の詩人。
「長恨歌」を詠い、玄宗と楊貴妃の愛の日々と悲劇を世へ広めた張本人。
比翼連理という言葉を玄宗と楊貴妃に当てはめた人物でもある。
逸話
その美しさについては、詩仙・李白の詩がある(「清平調詞三首」より)。玄宗が楊貴妃を伴って牡丹の花を観賞する宴を開いた時、宮廷詩人として召された李白が即興でたちまち作ったという。
雲 想 衣 裳 花 想 容 雲には衣裳を想い 花には容(かたち)を想う
春 風 拂 檻 露 華 濃 春風檻(かん)を払って 露華(ろか)濃(こま)やかなり
若 非 羣 玉 山 頭 見 もし群玉山頭(ぐんぎょくさんとう)に見るにあらずんば
會 向 瑤 臺 月 下 逢 会(かなら)ず瑶台(ようだい)月下(げっか)に向かって逢わん
(現代語訳例)
雲を見れば楊貴妃の美しき衣裳を思い 牡丹の花を見ればその美しき容姿が思い浮かぶ
春の風が欄干を吹き抜けていき 花に浮かぶ露は輝いている
このような美人には 西王母の住むという群玉山でも会えないかもしれぬ
きっと月光が降り注ぎ仙女が集うという瑶台でならば逢えるでのあろう
また白居易は、安史の乱における玄宗と貴妃の顛末を知り、同僚の勧めで長い詩にしたためた。
これが世に玄宗と貴妃の愛の日々を広く知らしめた「長恨歌」である。
この詩では、死後の楊貴妃は仙界へと召されて女道士となり、自分を喪って嘆く玄宗に「比翼連理」の例えを以って永遠の愛を告げたとしている。
玄宗の楊貴妃への寵愛の強さを知る逸話として、茘枝(レイシ)=ライチの話が良く知られる。
楊貴妃はライチが好物で、よくねだって取り寄せさせていた。
しかし嶺南にしか自生しないライチは、水分量が多いため腐りやすく、新鮮なまま届けるには長安からは余りに遠かった。そこで玄宗は早馬を走らせてライチを採りに行かせ、早馬も皇帝の勅命とあって道中にある田畑さえ踏み荒らして死ぬ気で取り寄せたという。遂にはライチを取り寄せる早馬のためだけに、専用の街道を整備したとまでいわれる。
また、健康や美容に良い食品にも詳しく、特に冬虫夏草やスッポンを常食していたとも言われる。
楊貴妃は芸伎に通じ、特に琵琶や笛を巧みに演奏し、舞踊も得意だったという。
玄宗は彼女のために「霓裳羽衣の曲」を作曲させ、貴妃も酔いながらでも舞えるほど嗜んだといわれる。
また西邦の舞踊「胡旋舞」も踊ったことがあると、白居易は『新楽府』という詩に記している。
温泉好きの湯煙美人であったとも伝わっている。
玄宗も彼女のために金銀宝玉を散りばめた豪華絢爛な湯殿を建て、冬場には越冬を兼ねて湯治に出かけるなどしたという。
仙女伝説
楊貴妃が死後仙人(仙女)になったという伝説がある。
白居易の漢詩『長恨歌』では、皇帝は亡くなった楊貴妃を方士に探し求めさせ、海上にある仙山に他の仙女たちと共に住んでいる事が判明する。仙山を訪れた皇帝の使者に対し、楊貴妃は螺鈿細工の小箱と黄金のかんざしを託す。その時彼女はかんざしの足(飾り部分の土台であり、髪の間に指して固定するパーツ)、箱を構成する本体と蓋のどちらか一方のみを預けた。
そこには皇帝との再会を願う意味が込められていた。
唐の歴史書『旧唐書』列傳第1后妃上51巻『新唐書』列傳第一后妃上7巻によると、皇帝が楊貴妃を弔い直そうと墓を確認させると、そこに遺体はなく、香嚢(かおりぶくろ)のみが残されていたという。
彼女を仙人として扱う場合「仙人とされる人物の墓の中に遺体がなく何らかの物品が残される」という尸解仙の類型に属する。
日本での伝説
日本においても楊貴妃についての伝承が残っている。山口県には楊貴妃が来日したという伝説が残り、長門市油谷町の真言宗寺院「二尊院」には彼女の墓と伝わる五輪の塔がある。
伝説の内容は、近衛隊長のはからいで処刑をのがれた楊貴妃が船に乗り日本に流れ着いた、という筋書きになっている。
この伝承では楊貴妃は日本に流れ着いた時点でかなり弱っており、里人の介抱むなしくやがて亡くなってしまった。
熊本県の天草の龍洞山にも楊貴妃伝説が残る。ここでの楊貴妃は山の一画に建つ立派な家に住まい、唐の国の薬を用いて疫病に苦しむ人々を救う。
彼女は皇帝の迎えを待つ身であると語る。ある日、空が曇り、雷が轟いた。人々はそこで天高く飛んでゆく龍の姿を見た。
山に行ってみると楊貴妃は家と共に姿を消していた。山の中には匂い袋が残されていた。こちらは仙人めいた超常的な人物としての描写である。
カクテル「楊貴妃」
桂花陳酒、ライチリキュール、グレープフルーツジュース、ブルー・キュラソーをシェイクし、カクテルグラスに注ぐ。ショートドリンク。
楊貴妃がライチを好んだという逸話にちなんでこの名称がつけられたといわれる。
関連タグ
世界三大美人
古代中国四大美人
楊貴妃をモチーフにしたキャラクター
楊貴妃(舞-HiME)(舞-HiME(漫画版))