大まかな歴史
13世紀のモンゴル帝国台頭前のユーラシア各地域は、隣接した地域には交渉があったものの、大陸の東西は直接の交流がなく、別々の歴史を刻んでいた。
紀元前後からの東アジアでは、いち早く大帝国を築いた中国を中心に、渤海、高句麗、新羅、日本、大理など周辺の民族が中華文明を取り入れながら独自の文明を築いていた。その中で北方の騎馬民族である匈奴・鮮卑などが強大化し、4世紀の西晋の滅亡後、匈奴は前趙、夏、北涼など、鮮卑が北魏、北斉、北周などの国家を樹立(五胡十六国時代)。中国統一王朝となった隋や唐も鮮卑の血を引く皇室による国家であった。唐の滅亡後、大小様々な地方政権が興亡する「五代十国時代」にあって、モンゴル系の契丹人は漢民族に同化しないまま中国本土の一部を征服する(遼)。遼の統治は中国全土には及ばなかったものの、次の千年紀に金・元・清と続く「征服王朝」のプロトタイプとなった。
中央アジアではエフタルや突厥が興亡した。エフタルはサーサーン朝ペルシアやインドのグプタ朝を脅かした。突厥は東は中国、西は東ローマ帝国・ペルシャと、中央アジアのシルクロードを利用して東西交易を活発に行い、さまざまな文化を取り入れた。
インドではクシャーナ朝、グプタ朝、ヴァルダナ朝、パーンディヤ朝など様々な王朝が興亡。この千年紀の前半には大乗仏教やバラモン教の教義が発展し、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』のインド二大叙事詩がかたちづくられた(インド古典文化の完成)。また、この千年紀後半には仏教が衰微し、周辺の宗教から影響を受けた「密教」が成立する。バラモン教と民間信仰が結びついたヒンドゥー教がこの時代に確立され民衆に広まった。ヒンドゥー哲学の体系化、今日のカーストにつながる「ジャーティ」と呼ばれる集団単位が成立したのもこの時代である。
イランはサーサーン朝の時代。サーサーン朝はゾロアスター教を国教に据え、聖典『アヴェスター』が整備された。また、マニ教、キリスト教が広まり、一定の勢力を得たし、サーサーン朝の東方では仏教に帰依する人もいた。イランは7世紀半ばに、イスラーム勢力の統治下に入り、多くのゾロアスター教徒がインドに逃れた。
中東では、7世紀にムハンマドが唯一神(アッラーフ)の啓示を受けたと主張し、イスラム教を開いた。ムハンマドはそれまで部族間抗争が絶えなかったアラビア半島を統一した。イスラム教徒たちはムハンマドの後継のカリフの下、征服戦争を続け、短期間のうちに大規模なイスラム帝国を築き上げた。ウマイヤ朝イスラム帝国は8世紀には北アフリカ全土を征服し、イベリア半島にも攻め込む。イスラム教徒のヨーロッパへの進撃は、732年にフランク王国とのトゥール・ポワティエ間の戦いに敗れるまで続いた。
ヨーロッパでは、この千年紀の初頭はローマ帝国の最盛期であったが、帝国のキリスト教化と古代文明の衰亡(古代末期)を経て中世ヨーロッパに移行する。古代ローマ帝国の後身たる東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は15世紀まで1000年間保ったものの、西ローマ帝国は5世紀に滅亡した。西ローマ帝国の故地にはゲルマン人による東ゴート王国、西ゴート王国、ヴァンダル王国、ブルグント王国、フランク王国などが生まれ、その中のフランク王国が、今日のフランス、ドイツ、イタリアのルーツとなる。
中央アメリカではマヤ文明、南アメリカのアンデス地域ではナスカ文化などが興亡した。またこの千年紀の末期には北欧のヴァイキングによる北米入植が行われ、後世に「ヴィンランド・サガ」として伝えられた。
オセアニアでは、ポリネシア人の一派がアオテアロア(ニュージーランド)に到達。アオテアロアは人類が定着した最後の大きな陸地(南極大陸を除く)となったが、この煽りでモアなどが絶滅してしまった。