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西ローマ帝国

にしろーまていこく

テオドシウス1世死後のローマ帝国の西半分を統治したローマ国家の通称
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解説

395年にテオドシウス1世が死去した際にその2人の息子アルカディウスホノリウスをともに皇帝として西に分割されたローマ帝国の西半分のこと。

広義的には286年のディオクレティアヌス帝によるローマ帝国のテトラルキア導入後のローマ帝国の西半分や、3世紀から5世紀までの間、テトラルキア以降の帝国の西半分に割拠した勢力を指すこともあるが当記事では前者のみを扱う。

ローマは一つ

「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に、後世の人間による呼称で、当時の王朝権力や住民は自らの国を単にローマ帝国と称しており、複数の皇帝が帝国領土を分割統治するのも、単に広大な領土を有効に統治するための一時的な便宜にすぎないと考えていた。共和政ローマ末期には、第二回三頭政治により3分割統治されたこともあった。そもそも上記のとおり、ローマ帝国は、286年に東西分割されたあとも、コンスタンティヌス1世のような強い権力を持つローマ皇帝が現れると再統合されるというようなことを繰り返していた。

この観点からいうならば、395年の最後の帝国の東西分割後も、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの異なる国家があったわけではなく、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったということになる。

西ローマ帝国が滅亡した後も、東ローマ帝国は自らの国家をローマ帝国と自称したのも、こうした認識によるものである。しかし、帝国東部はギリシャ文明の遺産が色濃い地域であり、言語もラテン語ではなくギリシャ語を用いるようになり、西ローマ帝国が滅びて長い時間が経つとともに、東ローマ帝国の人々は自らをローマ人というよりギリシャ人であると考えるようになっていった。

滅亡

西ローマ帝国は395年の最後の東西分割後急速に衰退し、100年足らずで滅亡した。滅亡年は一般に476年9月4日ロムルス・アウグストゥルスゲルマン人傭兵オドアケルの圧迫を受けて退位)というのが一般的な説であるが、480年(ユリウス・ネポス殺害)とする説もある。

欧州史では通常、この西ローマ帝国の滅亡をもって中世の始まりとする。しかし、東ローマ帝国はその後1000年近く(1453年まで)存続した。

関連タグ

フランク王国
ローマ法王(教皇)
東ローマ帝国 神聖ローマ帝国 フランク王国 第三帝国

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