解説
395年にテオドシウス1世が死去した際にその2人の息子アルカディウスとホノリウスをともに皇帝として東西に分割されたローマ帝国の西半分のこと。
広義的には286年のディオクレティアヌス帝によるローマ帝国のテトラルキア導入後のローマ帝国の西半分や、3世紀から5世紀までの間、テトラルキア以降の帝国の西半分に割拠した勢力を指すこともあるが当記事では前者のみを扱う。
歴史
ホノリウスは西ローマ皇帝に指名されたが、現地勢力から支持されていたわけではないので、その治世は不安定であった。彼は西ゴート族の侵入を受けて首都と宮廷を防衛しやすいラベンナに置いたが、410年にローマは西ゴート族に略奪された。帝国にとっておよそ800年に渡って外敵の侵入を許さなかった永遠の都が陥落した打撃は大きかった。歴代皇帝の墓所は暴かれて破壊され、価値ある宝物は全て持ち去られ、住民たちは多くが虐殺されるか奴隷とされた。西ゴート族がイタリアを去った後も、西ローマではゲルマン人諸族と東ローマ帝国軍、そして混乱の中で勢力を強めてきたローマ教皇庁の勢力争いが繰り返された。455年にはヴァンダル族によって再びローマは略奪され、残された多くの富が持ち去られた。こうして西ローマ帝国は急速に衰退し、100年足らずで滅亡した。
滅亡年は一般に476年9月4日。最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン人傭兵オドアケルの圧迫を受けて退位したというのが一般的な説である。もっとも皇帝ロムルスにしてから、ゲルマン人将軍が自分の都合に合わせて一族から選んだまさに「お飾り」の皇帝に過ぎなかった。
オドアケルは帝冠を東ローマ皇帝ゼノンに返上した。ゼノン帝はダルマチア(今のクロアチア沿岸部)に逃れていた親族のユリウス・ネポスを西ローマ皇帝とみなしていたが、これも480年に暗殺されて西ローマ皇帝の擁立を断念した。
欧州史では通常、この西ローマ帝国の滅亡をもって中世の始まりとする。
しかし、東ローマ帝国はその後1000年近く(1453年まで)存続した。
ローマは一つ
「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に、後世の人間による呼称で、当時の王朝権力や住民は自らの国を単にローマ帝国と称しており、複数の皇帝が帝国領土を分割統治するのも、単に広大な領土を有効に統治するための一時的な便宜にすぎないと考えていた。共和政ローマ末期には、第二回三頭政治により3分割統治されたこともあった。そもそも上記のとおり、ローマ帝国は、286年に分割されたあとも、コンスタンティヌス1世のような強い権力を持つローマ皇帝が現れると再統合されるというようなことを繰り返していた。
この観点からいうならば、395年の最後の帝国の東西分割後も、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの異なる国家があったわけではなく、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったということになる。
西ローマ帝国が滅亡した後も、東ローマ帝国は自らの国家をローマ帝国と自称したのも、こうした認識によるものである。東ローマには皇帝と元老院がそのまま残り、ローマの制度と文化がその後も存続した。
しかしその後、長い時間のうちに帝国東部はラテン語ではなくギリシャ語を用いるようになり、独自の制度と文化を持つようになった。しかし彼らは、あくまで自分たちを「ローマ人」と考えており、ギリシャ人と呼ばれることを侮辱と見なした。
本当に滅亡したと言えるのか?
イタリアでは、西ローマ皇帝位が消滅した後も、ローマでは(時代の変化と共に権限は縮小し、ついには有名無実となっていくが)元老院が活動し、東ローマ皇帝と交渉しながら行政を担っていた。またオドアケルやその後継者である東ゴート王国、ランゴバルド王国の王らゲルマン人たちもローマ帝国に雇われた傭兵の将軍として公的には活動していた。こういった中で力を強めた教皇庁は、797年に東ローマ帝国でエイレーネーが史上初めて女帝として即位したことを僭称と称して自らローマ皇帝を擁立しようとする。そして先に774年にランゴパルド王国を滅ぼして教皇を支援したフランク王国のカール1世をローマ皇帝カール大帝として800年に即位させた。この後、カールの後継者であるフランクの諸王からローマ皇帝が選ばれるようになり、やがてドイツを中心に支配するようになったローマ皇帝が治める領域を後世で神聖ローマ帝国と呼ぶ。そう考えていくと、476年や480年を中世の始まりとして単純に区切る基準は絶対ではない事に注意しなければいけない。