概要
南北朝の北周の重臣であった楊堅が581年に禅譲を受けて成立した。589年に南朝の陳を倒し、約260年ぶりに中国統一を達成した。
この時代、これまでの律令をまとめ、「開皇律令」として集大成、さらに三省六部制の整備、均田制の完成、科挙の施行などが行われ、以後の前近代中国の政治・社会の基礎がかたち作られた。そればかりか、朝鮮半島や倭(日本)、ベトナムなどの政治制度にも大きな影響を与えた。
2代皇帝の煬帝は、魏晋南北朝の混乱で分断された経済の統一を図るべく、大運河の建設などを行った。また、万里の長城修築や高句麗遠征など周囲諸国への軍事行動を積極的に行った。しかし、度重なる大規模事業に人民は疲弊、各地で反乱を起こされ、618年に唐に禅譲する形で隋は滅んだ。
聖徳太子が小野妹子を派遣し「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや(日の出るところの天子が手紙を日の沈むところの天子にさしあげます。お変わりありませんか)」で始まる国書を送ったのはこの王朝である。
隋の皇帝
- 文帝(楊堅、在位581年 - 604年)
- 煬帝(楊広、在位604年 - 618年) 文帝の子
- 恭帝侑(楊侑、在位617年 - 618年) 煬帝の孫
- 恭帝侗(楊侗、在位618年 - 619年) 煬帝の孫、楊侑の兄
年号
- 開皇(581年 - 600年)
- 仁寿(601年 - 604年)
- 大業(605年 - 618年)
- 義寧(617年 - 618年)
- 皇泰(618年 - 619年)