本名は楊広と言い、北周の将軍だった楊堅の次男として569年に誕生した。
581年に楊堅が隋を建国、589年に南朝陳攻略の総司令官に任命、これを見事に成し遂げる。これで存在感をあげた楊広は、兄の楊勇を讒言により廃太子に追い込み、自ら皇太子に。
父が死ぬ(楊広による暗殺説もある)と皇帝に即位。
皇帝となった楊広は、国力温存のため大規模な事業に消極的だった父とは対照的に、積極的な投資や軍事行動に乗り出す。国内では、大規模な運河(大運河)建造を断行。煬帝は150年あまりに渡り寸断されていた、南北経済を結びつけることの重要さを痛感しており、これにより南北の経済的統一を図った。
対外的には万里の長城修築、高句麗への遠征を行った。
しかし、3度にわたって行われた高句麗遠征はいずれも失敗、さらに上記の大規模事業で人民は疲弊し、財政も破綻、国力を著しく衰えさせ内乱を誘発させた。
死後、唐により徹底的にこき下ろされたため、中国史上屈指の暴君という評価が定着、煬(天に逆らい、民を虐げる)と言う蔑称が諡号として用いられた。
しかし、煬帝が改修・建造した大運河は元代の修築を経て、長きに渡って使用されるなど、父の文帝とともに以後の中国王朝の基盤を築いたという評価も出来る。
日本では、聖徳太子が『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや』と言う国書を贈った皇帝として名が知られている。これは、『日出ずる処』を日本、『日没する処』を隋とし、日本と隋があたかも対等な関係であるかのような文章である。当然煬帝はこれに腹を立て、日本との交易を打ち切ろうとしたが当時の隋は国の四方が敵だらけであり、そこへもってきて高句麗との外交関係も悪化していた。「交易を続けとかないと後がコワイ」と踏んだ煬帝は裴世清を遣わし日本と交易を続行したという。