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概要編集

現在のイランを表す古名。また、この地に興ったペルシア帝国と呼ばれる諸王朝のこと。

漢名は波斯(はし、はるしゃ)・波斯国(はしこく)。


語源は騎馬者を意味するパールス(Pârs)。ギリシャ語ではペルシス(Πέρσις Persis)と呼ばれ、現代イランでファールス地方にあたる。


歴史編集

記録が明らかな最初の古代ペルシア人の帝国である、アケメネス朝ペルシア帝国を始め、パルティア帝国ササン朝ペルシア帝国まで、古代ペルシア語ゾロアスター教を中心とする文化に基づく諸帝国がこの地に栄えた。


その後7世紀、ササン朝は東ローマ帝国との抗争による弱体化の間隙を突いたイスラム教団によって征服され、ウマイヤ朝アッバース朝とアラビア人イスラム教徒の支配下に入り、ゾロアスター教は衰退してイスラム化した。9世紀以降、ペルシア系のサマン朝、トルコ系のセルジューク朝、モンゴル系のイルハン朝チムール帝国等が興亡を繰り返した。ペルシア人系の王朝の支配が実現した時期は少なかったが、アッバース朝以降は諸王朝の官僚としてペルシア人が活躍し、軍事を主に担ったトルコ系の遊牧民と共に諸王朝の柱となっていた。彼らが用いたペルシア語もこの地における行政文書を記述するのに用いられて定着していった。


この官僚と軍事の体制を引き継いだうえでペルシア人の王を擁するサファビー朝ペルシアが、16世紀からこの地にペルシア人の長期安定政権を築く。サファビー朝はシーア派の十二イマーム派を国教とし、現代のイラン文化の母体がこの時代に概ね定まる。サファビー朝滅亡後は混乱が続き、ようやく統一王朝となったカジャール朝も欧州植民地帝国の侵入を受けて不安定であった。その中で、1925年に成立したパフラビー朝が国号をイランと改称し近代国家を目指していくことになる。




アケメネス朝ペルシア帝国年表編集

紀元前550年、小王国アンシャンの第7代の王キュロス2世メディア王国を滅ぼし、アケメネス朝を建国する。

紀元前547年、キュロス2世がリュディアを滅ぼす。

紀元前539年、キュロス2世が新バビロニアを滅ぼす。

紀元前525年、カンビュセス2世エジプトを併合しオリエントを統一する。

紀元前521年、ダレイオス1世パンジャーブ・シンドを征服する。

紀元前520年、ダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手。

紀元前518年、ダレイオス1世がガンダーラを征服する。

紀元前500年頃、ギリシアとの間で戦争を起こす。ペルシア戦争(紀元前500年-紀元前449年)

紀元前494年、イオニアの反乱を鎮圧。

紀元前490年、ペルシア軍のギリシア遠征、マラトンの戦いでギリシアに敗れる。

紀元前480年、クセルクセス1世によるギリシア侵攻(テルモピュライの戦いサラミスの海戦)。

紀元前479年、プラタイアの戦いでギリシア連合軍に敗れ、クセルクセス1世によるギリシア侵攻は失敗。

紀元前333年、ダレイオス3世イッソスの戦いアレクサンドロス3世に敗れる。

紀元前331年、ダレイオス3世、ガウガメラの戦いでアレクサンドロス3世に敗れる。

紀元前330年、ダレイオス3世、逃走中にバクトリアサトラップのベッソスに殺害され、アケメネス朝は滅亡。




サーサーン朝ペルシア帝国年表編集

208年:バーバクがパールス地方を統一。サーサーン朝の基礎を起こす。

226年:アルダシール1世がパルティア(アルサケス朝)を滅ぼし、イランイラクを統一。

240年頃:シャープール1世クシャーナに遠征し、ガンダーラを奪う。

260年:シャープール1世、エデッサの戦いでローマ軍と戦い、ウァレリアヌスを捕える。

350年頃:シャープール2世、クシャーナを破り、再度征服。

363年:シャープール2世、ユリアヌスを敗死させる。

409年:キリスト教寛容令。

425年:エフタルの侵入。

428年:アルメニア王国を廃絶し、サーサーン朝の知事を置く。

484年:ペーローズ1世エフタルとの戦いで戦死。

540年:ホスロー1世、アンティオキアを占領。

567年:ホスロー1世、エフタルを滅ぼす。

575年:ホスロー1世、イエメンを占領。

616年:ホスロー2世、東ローマ領のシリア、エジプトを占領。

627年:ニネヴェの戦いで東ローマ・ヘラクレイオス朝のヘラクレイオスに敗れ、クテシフォン近郊への侵攻を許す。

628年:ホスロー2世暗殺、息子のカワード2世はヘラクレイオスと和睦、占領地を奪回される。

637年:カーディシーヤの戦いイスラム軍に敗れ、クテシフォンを占領される。

642年:ハマダーン近くのニハーヴァンドの戦いで敗北。

651年:ヤズデギルド3世が逃亡先で暗殺され、サーサーン朝滅亡。


サファビー朝ペルシア年表編集

1501年:サファビー教団の教主、イスマーイール1世が白羊朝からアゼルバイジャンを奪って建国

1508年:イスマーイール1世、白羊朝を滅ぼしてイラクとイラン西部を制圧。

1510年:メルヴの戦い。シャイバーニー朝を破ってイラン東部も制圧する。

1514年:チャルディラーンの戦い。オスマン帝国に敗れ、アナトリア進出に失敗する。

1524年:イスマーイール1世死去。

1533年:オスマン帝国のスレイマン大帝が侵入開始。

1555年:オスマン帝国とアマスィヤ条約で講和。イラクを失うが、アゼルバイジャンとイランは確保

1577年:王位争いに乗じてオスマン帝国、シャイバーニー朝が侵入。アゼルバイジャンとイラン東部を失う。

1587年:アッバース1世即位

1598年:アッバース1世、シャイバーニー朝を破りイラン東部を回復。

1598年:イスファハーンに遷都。壮麗な建築が並び、「世界の半分」と称された。

1612年:アッバース1世、オスマン帝国を破りアゼルバイジャンを回復。

1623年:アッバース1世、オスマン帝国を破りイラクを回復。サファビー朝の全盛期。

1629年:アッバース1世死去。

1648年:アフガニスタンカンダハールムガル帝国から奪取。

1709年:カンダハールにホータキー朝成立。

1720年:ホータキー朝がペルシア本土に侵入、東部のケルマーンが攻略される。

1722年:ホータキー朝がイスファハーンを制圧。最後の王、スルターン・フサインは降伏して廃位。実質的なサファビー朝の崩壊。

1736年:傀儡となっていたアッバース3世が廃位、アフシャール朝が開かれて完全な滅亡。


「帝国」編集

アケメネス朝のダレイオス1世が「諸王の王」(シャーハンシャー)と名乗り、諸王国の王よりも格上の存在とされていた(ただしキュロス2世の頃からこのよう用例はあったらしい)。パルティア帝国、ササン朝とこの称号は引き継がれている。イスラム以降ではブワイフ朝、セルジューク朝などで用いられている。サファビー朝以降のペルシアでは単に「王」(シャー)と名乗っていたが、パフラビー朝の最後の王、モハンマド・レザー・パフラヴィーは諸王の王の名乗りを復活している。日本では、この諸王の王という語感を日本語に翻訳する際に国名をペルシア「帝国」として訳すことで表現されてきた。


別名・表記揺れ編集

ペルシャ ペルシヤ


関連タグ編集

地名 イラン 東洋史


ペルシア帝国 アーリア人 ペルシア人

ペルシア語 ペルシア文字 ペルシア暦 ペルシア戦争

ペルシア湾 ペルシア高原

ペルシャ絨毯 ペルシャ猫 ペルシアンドレス


アルスラーン戦記…ペルシアのササン朝をモデルとした国が舞台の架空戦記。

水橋パルスィ…東方Project作品に登場するキャラクター。


外部リンク編集

ペルシア(Wikipedia)

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