ピクシブ百科事典

ムガル帝国

むがるていこく

かつてインド亜大陸の大部分を統治していたイスラム朝の国家。
目次[非表示]

概要

1526年から北インドを、その後17世紀の末から1858年頃までインド南端部を除くインド亜大陸の大部分を支配し、統治していたトルコ系イスラーム王朝による国家で、『ムガル朝』とも呼ばれている。首都デリーアーグラなど。

現在インドを象徴する歴史建造物となっているタージ・マハルは、実はイスラム教の建造物であり、ムガル帝国第5代皇帝のシャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃であるムムターズ・マハルのために建設した墓廟で、造詣もインド・イスラーム文化の代表的建築となっている。

しかし、18世紀初めには地方の長の離反や、各地で小国の独立が続いたために帝国の衰退が避けられなくなった。加えてイギリスの侵略に耐える事が出来なくなり、19世紀にはデリーとその周辺のごくわずかな領土を残すまでに凋落していった。

1857年に起きた第一次インド独立戦争後に、イギリスは最後の皇帝、バハードゥル・シャー2世をビルマへと追放し、イギリス領インド帝国が発足する事となる。インドの人々は独立を再び勝ち取る1947年まで様々な苦労を強いられることとなった。しかし、後に再び強国となったインドとは対照的に、今度はイギリスが領土を失い完全に衰退し、本国も分裂の危機にある状態となった。慢心の果てにムガル帝国と同じ道を歩むこととなったのは何とも皮肉な事である。

宗教政策

最盛期に当たるアクバル大帝以来100年間、ムガル帝国は寛容な宗教政策を敷いていた。これは皇室が信仰するイスラム教徒が帝国内では少数派で、教条的な信仰生活とは無縁な遊牧民の出身であったため。
本来コーランに定めてある人頭税の廃止や、異教徒との結婚も解禁しただけではなくヒンドゥー教の宗教祭典に参加するなど融和に務めた。さらにペルシアの影響で文化を重んじる気風も強く、宮廷にヒンドゥーの文化人や芸術家を招聘して庇護したため、ヒンドゥーとイスラム文化が融合した文化が花開いた。

しかし、アクバルの曾孫にあたり熱狂的なイスラム教徒であるアウラングゼーブはこれらの寛容な宗教政策をすべて転換した。手始めに軍制の行き詰まりで傾いてきた財政を建て直すこともかねて異教徒への人頭税を復活。この他にも武器の携行や役人の採用などにも明らかな差別政策を儲けて改宗を促し、ムガル帝国を完全なイスラム国家へ変えようとした。
当然ヒンドゥー教徒をはじめとする異教徒は反発し、それまで緩やかな信仰生活を送っていたイスラム教徒からも離反者が続出。滅亡に至る200年間ムガル帝国は反乱と外患に悩まされるようになり、帝国は反乱勢力の相次ぐ独立を許して急速に衰退へと向かった。
現在のインドとパキスタンの分離独立にはイギリスの分裂工作も一枚絡んでいたが、アウラングゼーブの時代にその種はすでに撒かれていたことになる。

現在イスラム国家であることを拠り所とするパキスタンではアウラングゼーブが、多民族、多宗教国家であり世俗的であることを重んじるインドではアクバルが国民的英雄と見なされており、両者の対立の根深さを物語っている。

関連タグ

インド インド亜大陸
イスラム教 帝国
タージ・マハル

関連記事

親記事

インド いんど

兄弟記事

pixivに投稿された作品 pixivで「ムガル帝国」のイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 2597

コメント