アナンパル(Anangpal)2世は11世紀のインドにてトマラ王朝を統べた王。トマラ王朝を代表する人物故にアナンパル・トマラやアナンパル・トマール(Anangpal Tomar)とも。トマラ王朝を立ち上げたアナンパル1世は8世紀の人物なので混同しないように。
概要
伝承によると彼はクル王パリクシットの子孫。それはつまりあのアルジュナの子孫ということでもあり、ひいては月種(チャンドラ・ヴァンシャ)系統のクシャトリヤということになる。
トマラ王朝が支配した域はハリヤーナー(意:神の住まい)と呼ばれる。アナンパル2世の頃のハリヤーナーは東西にはラージャスターンからウッタル・プラデーシュまで、南北にはヒマーチャル・プラデーシュからマディヤ・プラデーシュまで広がる。つまり現在のハリヤーナー州より断然大きい。首都のデリーもこの範囲に含まれる。
そもそもデリーはトマラ王朝により誕生した。とはいえこの場所は歴史を通して幾度も都市を丸ごと建て替えられている。それだけデリーは戦略的な観点から見ても重要な拠点であり、侵略者からすれば魅力的な場所であり、襲撃を受けたり新しい支配者の趣向に合わせたりした。
ともあれ、資料によるとアナンパルは1052年にデリーを建設した。と言ってもこの地には昔から人が住んでいることがわかっており、8世紀のアナンパル1世の時点でも拠点にされてた。あくまでもここがデリーという都市として機能するようになったのがここからという話である。そしてデリーの鉄塔をここに運び突き立てた(諸説有り)。デリーの鉄塔を作ったのはチャンドラグプタ2世だが、アナンパルが鉄塔をデリーに運んだのも歴史的に重要とされる。これを中心にアナンパル2世は赤い要塞ラル・コットを作り、現在はキーラ・ライ・ピソラという名で世界遺産デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群の一部になっている。
現在のハンシにも要塞を作り、彼の息子ドルパド(Drupad)はここに剣工場を備えた。アシーガル(剣の要塞)とも呼ばれるこのハンシ要塞はインドで最も強固な要塞の一つだったという。
ハリヤーナーは多くの勢力に囲まれていた。記録はあまり残ってないが、アナンパルはイスラムのガズナや、カシミールからの勢力等と戦い勝利している。
当時北インドには150にも及ぶラージプートの王国が存在していたが、アナンパルはその中で最も強く、地を下から支える蛇の王シェーシャもその存在に震える…なんて言われたとか。
アナンパルは他にもヒンドゥーの神殿を幾つも建てたが、その殆どがイスラムの侵略により破壊され現存しない。
現ヒンディー語についてだが、アミール・フスロー(Amir Khusrow)ことアブルハサン・ヤミーヌッディーン・フスローが発展させたという説があるものの、アミールより以前の人物であるアナンパルが発行した硬貨に既にハリヤーナー方言の文字が刻まれていたことからこのアナンパルが現ヒンディー語の父という歴史家もいる。