ラクシュミー・バーイー
らくしゅみーばーいー
生年未詳(1835年説が有力)、19世紀半ばにインドを席巻したインド大反乱の指導者の一人。
元々インド中部のマラーター貴族の出身で、1842年に小国ジャーンシー藩王国に嫁ぐ(もちろん政略結婚である)。1851年に王子を生むもすぐに死別、更に王も病に伏せるようになる。これによりジャーンシー王家は滅亡が確定してしまい、ラクシュミーは養子を取るも時すでに遅く藩王国はイギリスの東インド会社傘下となる。1853年に王の死により王家は断絶、ラクシュミーは城を放逐された。
そして1857年。セポイと呼ばれるインド人傭兵達がイギリス軍と宗教上の兼ね合い(ヒンドゥー教とイスラム教の食のタブーに触れるもの)からセポイの乱が勃発。反乱はやがてインド全土に拡大し、当初は戦争を回避するべく折衝していたラクシュミーもイギリス軍の戦火に晒されたことで腹をくくり、私財を投げ売って反乱軍に加担する。
翌1858年4月、ラクシュミーは反乱軍が制圧して蛻の殻になっていたかつての居城ジャーンシー城に立てこもると、女子供老人までかき集めた義勇軍を編成し、徹底抗戦を行う。イギリス軍も「なぜ女が率いる素人だらけの砦を落とせんのだ」と驚愕するほどの混戦となり、最終的にジャーンシー城は陥落。わずかな手勢と共に敗走したラクシュミーは、カールピーで他の反乱軍指導者と合流し徹底抗戦を進言するが、既に妥協を探っていた他の将軍たちからは孤立し、結局ここもイギリス軍により攻め落とされる。
しかしそれでも諦めなかったラクシュミーは6月にグワーリヤル城を無血で乗っ取り、仰天したイギリス軍は大軍を差し向けた。ここでもラクシュミーは自ら最前線に出てライフルと剣で戦うというマンガみたいな戦いを続け、6月18日、銃弾を受けて落馬し戦死した。
ラクシュミーの写真はやや粗いが現存しており、当時からしても美貌で知られていた。
彼女は貧しい生まれながら努力を絶やさず、命尽きる最後まで決して諦めはしなかった。政治的にも優れ、誰よりも勇敢であった。
その壮絶な死には敵国イギリス軍でさえ、貴人に対する礼を以て葬儀を行ったという。
同じくイギリスに敗れ、最後まで祖国と民を護る為に散っていった一人の少女に準え__
___彼女は今も、インドのジャンヌ・ダルクと呼ばれ、人々から愛されている。
現在このタグはほとんどが『Fate/GrandOrder』に登場する同名のサーヴァントに使用されている。そちらでもまんまジャンヌ・ダルク(Fate)をインドっぽくしたような外見である。
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「アサルトリリィ」の天葉様と樟美ちゃんに、「インドのジャンヌ・ダルク」こと王妃ラクシュミー・バーイーとその影武者ジャルカーリー・バーイーを絡めた、史実オマージュssです。 Twitterにあげていたものを加筆修正したものです。 私の初投稿作品です。拙いものかもしれませんが、楽しんで頂けると幸いです。 なお、これはあくまで「かつて二人が交わしたであろう会話を、『天葉様にとっての悪夢』として再構成されたもの」であり、史実と異なる部分もあります。 また、ジャルカーリー・バーイーの生涯については、作中でも語られていますがはっきりしたことはわかっておらず、諸説あることもご了承ください。 (以下、作品のネタバレ含む) ジャルカーリー・バーイーのキャラ付けは、「不可触民である自分にそれほど価値があるとは思っていないが、自分を大切に扱ってくれる王妃のことは大好きで、王妃になら命を捧げてもいいと考えている」というものにしました。格闘術の心得がある、という台詞は、「森の中で虎に襲われた彼女が素手で虎を撃退した」という伝説を基にしています。 また、彼女は「ラーニー(王妃)」という言葉を合間合間に挟んでいますが、これは「不可触民である自分と王妃はあまり関わらない方がいいのに、それを気にせず王妃が接してくるから、『身分の差をわきまえてくれ』という意味を込めて言っていたのが癖になった」という設定があります。 ちなみに、タイトルはラクシュミー・バーイーの名言、「我がジャーンシーを決して放棄しない(メーレー・ジャーンシー・ナヒン・デーンゲー)」をアレンジしたものです。一応、天葉様が愛するシルトを決して手放さない、そういう意味もありますが、率直に言って彼女のこの台詞ありきでこのタイトルを考えました。5,138文字pixiv小説作品