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アケメネス朝

あけめねすちょう

アケメネス朝とは古代オリエントのペルシアに存在した王朝・帝国・遊牧国家。
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概要編集

紀元前6世紀にキュロス2世により、ペルシア(現イラン)地方に建国されたペルシア人国家のことである。

4王国(メディアリュディア新バビロニアエジプト第26王朝)に分立していた古代オリエント世界を統一し、最盛期のダレイオス1世の時代には、エーゲ海沿岸からインダス川流域に及ぶ広大な世界帝国を形成した。最大版図は西はギリシャ領(の一部)、南はエジプト、東はインダス川流域を収め欧州と中東を世界で初めて繋ぐ空前絶後の巨大な帝国となった(これは後のアレクサンドロス大王が作り上げた帝国より大きいとされる)。

その後紀元前330年にマケドニア王国アレクサンドロス大王の遠征軍によって滅ぼされた。


アケメネス朝のアケメネスという名称はこの家祖であるアケメネス(キュロス2世の四代前の人物とされる)に由来する。


歴代君主編集

従来、ダレイオス1世はアケメネス朝の傍系とされていたが、近年の研究により、王朝の創始者であるキュロス2世の直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪したため、初代からの直系で連綿と続く王朝ではなかったことが研究者間の論争の中でほぼ明らかになっている。また、最後の王ダレイオス3世も、元々は従前のアケメネス朝とは繋がりのない地方の総督に過ぎなかったが、アケメネス朝が断絶したために擁立されたのだと言われる。

また、そもそものアケメネス朝の系図自体がダレイオス1世の帝位簒奪を正当化するための捏造だとする説もあり、すると傍系どころか王朝との間に全く血縁関係はない可能性も出てくる。この説では、キュロス家の名前とゾロアスター教の理念で意味づけられた即位名を名乗ったダレイオス家の名前の系統が大きく異なる説明もつくという。


君主一覧編集


アケメネス朝ペルシア帝国年表編集

紀元前550年、小王国アンシャンの第7代の王キュロス2世メディア王国を滅ぼし、アケメネス朝を建国する。

紀元前547年、キュロス2世がリュディアを滅ぼす。

紀元前539年、キュロス2世が新バビロニアを滅ぼす。

紀元前525年、カンビュセス2世エジプトを併合しオリエントを統一する。

紀元前521年、ダレイオス1世パンジャーブ・シンドを征服する。

紀元前520年、ダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手。

紀元前518年、ダレイオス1世がガンダーラを征服する。

紀元前500年頃、ギリシアとの間で戦争を起こす。ペルシア戦争(紀元前500年-紀元前449年)

紀元前494年、イオニアの反乱を鎮圧。

紀元前490年、ペルシア軍のギリシア遠征、マラトンの戦いでギリシアに敗れる。

紀元前480年、クセルクセス1世によるギリシア侵攻(テルモピュライの戦いサラミスの海戦)。

紀元前479年、プラタイアの戦いでギリシア連合軍に敗れ、クセルクセス1世によるギリシア侵攻は失敗。

紀元前333年、ダレイオス3世イッソスの戦いアレクサンドロス3世に敗れる。

紀元前331年、ダレイオス3世、ガウガメラの戦いでアレクサンドロス3世に敗れる。

紀元前330年、ダレイオス3世、逃走中にバクトリアサトラップのベッソスに殺害され、アケメネス朝は滅亡。


関連タグ編集

ペルシア イラン  キュロス2世 帝国 中東 東洋史


外部リンク編集

アケメネス朝(Wikipedia)

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