ムハンマド
むはんまど
フルネームはムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・アブドゥルムッタリブ。570年頃にアラビア半島のメッカに生を受けた。一族は聖地の管理を統括するクライシュ家だったが、幼い頃に父を亡くし親族の元で養育された。
25歳頃に年上の未亡人ハディージャ・ビント・フワイリドと結婚して4人の子(全て娘)をもうけて商人として順調な生活を送っていたが、悩みを抱いて瞑想にふけるようになる。610年8月10日、メッカ郊外の山でジブリール(ガブリエル)の啓示を受けて預言者となった。
ムハンマドの新しい宗教はセム系一神教の流れをくむものであり、多神教徒らによる聖地巡礼というクライシュ族の既得権益に反するものであったことから親族らから反対され、迫害の末に戦争状態へと発展した。一部はアビシニア(現在のエチオピア)に逃れたが、預言者ムハンマド本人はアラビア半島を去ることはせず、622年にメディナ(当時の名前はヤスリブ)に移住することとなった。(アラビア語で「離郷」「移住」を意味する「ヒジュラ」と呼ばれる。日本語名は聖遷など。)
夜の旅と昇天(イスラーとミウラージュ(カタカナ表記はミーラージュとも))と呼ばれる出来事では天馬ブラークに乗って天界に行ったとされ、アダムやノア、モーセ、イエスなどといった過去の預言者たちにも会ったといわれる(預言者の数は25人、または27人とも)。この件は超常現象的であることから人々の間に議論が起きることとなり、クライシュ族側からの攻撃材料ともなった。しかしアブー・バクルは真実であると断言。このエピソードから彼には「非常に誠実なる(者)」という二つ名「スィッディーク」で呼ばれることとなった。
ムハンマドが神の言葉として天使を通じるなどして受けた啓示・預言であるクルアーンと、ムハンマド自身の言行の記録であるハディース集はイスラム教の聖典となっており、今日の信徒たちの信仰生活を送る際の規範として機能している。ハディースにおいてはその人柄を示すエピソード、外見の詳細、家族との過ごし方など事細かな伝聞が記載されている。
預言者となったムハンマドはアッラーの教えを説いて回るが迫害に遭い、転戦の日々を余儀なくされる。少数民族の多神教ばかりでなく、ササン朝やビザンツ帝国と言ったキリスト教やゾロアスター教の大国ともにらみ合うなど多難を乗り越え、630年にメッカを奪還してイスラムの聖地たらしめた。2年後の632年、ムハンマドは戦いと布教にかけた人生を終えた。
ムハンマドとネコ
ムハンマドはネコ好きであったと伝承され、ネコに関する逸話もいくつかある。それらの中には「ムハンマドが礼拝している最中、愛猫ムイッザ(日本語カタカナ表記ではムエザも多様されている)が着物の袖の上で眠ってしまった。ムイッザ(ムエザ)を起こすのが忍びなかったムハンマドは、袖を切り落として外出した」、「蛇から助けたネコを感謝の礼として撫でた事で額に縞(とくにM字状)があるネコはムハンマドのネコ」といった話がある。
しかしながら法学者らによると猫を大事にはしていたが飼っていたという事実は確認できていないという。またMの字についてもアラビア半島はラテン文字文化圏ではなくMの音を表す子音は「م」であることからもムイッザの件同様に真実ではないが後代に作られた逸話となっている。
猫は犬と違い不浄(ナジス)ではない存在とされアラブ人たちが狩猟犬として大切にしてきたサルーキも含め不浄であるとされているなど扱いが違うこと、また犬は罵倒語としても使われる差別対象でもあることから、イスラム世界では特に綺麗好きであるネコを大切にする傾向があり、猫を虐待した女性が神に罰せられ、地獄に落ちた逸話がハディース(ムスリムの道徳やマナー、生き方の指南書)の中で語られている。
(だが、イスラーム自体は動物を大切にする宗教であり、ムハンマドが喉が渇いた犬に水を恵むという逸話もある。 参照:動物に対しての慈しみ)
イスラム世界にはムハンマドを描くことをタブーとする解釈も存在し、あるムハンマドの伝記映画では彼の目から映る光景を映像化しており、彼自身の姿は画面には映らない。
ムハンマド風刺漫画問題では、ムハンマドへの侮辱的要素だけでなく、彼の姿を描く事の是非も問われた。これはイスラム学者のあいだでも意見の一致を見ない。
ただし、歴史上ではムハンマドを描いた絵は存在していた。その多くは上記の画像のように布を被ったものだが、中には顔を描いたものもある。
pixivでもイスラム関連の創作を行う場合、イスラム教徒が描写を嫌う預言者ムハンマドや身近だった一部重要人物の顔出しを避けるなどトラブル予防のためある程度の内容確認が必要だと思われる。
ムハンマドは生涯で大きな戦いが3つあった。
ヴブドの戦い
⋯バドルの戦いの翌年、メッカ軍はリベンジとしてユダヤ人を召集。敵軍3000に対しムハンマドは味方のユダヤ人を帰還させムスリム兵700の馬2頭だった。また、この戦いでは一騎打ちをやめる。当初戦いはムハンマドの思惑通りに進んでいたが、味方の弓隊が勝手に追撃して敵の騎馬隊の侵入を許してしまい敗北。ムハンマドは叔父のハムザを亡くし、負傷。戦後ムハンマドは帰還させたユダヤ人と揉めている。多くの兵士を失ったため一夫多妻制を導入した(未亡人救済が目的)。
寡婦救済の目的などで娶った事例もあったため結婚した妻の数は合計で10人いたとされる
子女
妻のうちハディージャら2人との間に7人が生まれたが成人したのはハディージャとの間の4人だけで、そのうち孫以降の代までずっと続いたのは末娘ファーティマとアリーとの間に生まれた子供たちを通じてだった(他の3人はムハンマドの存命中に早世した)。
養子
- ザイド・イブン・ハーリサ
- アリー
親戚
- 父方叔父:アブー・ターリブ⋯ハーシム家当主。ムハンマドの親代わりになる。大家族のゆえに晩年は家産が減り凋落。彼の息子だったアリーはムハンマド一家の養子となり義理の息子として育ち、後に預言者の娘を妻とするに至った。アブー・ターリブ自体は異教徒のまま亡くなったと言われるがシーア派では唯一神を信じイスラム教徒同様の考えを持っていた人物として扱われている。
- 父方叔父:アブー・ラハブ⋯アブー・ターリブの弟。ムハンマドがイスラム勢力を立ち上げたため、他の部族からハーシム家への経済制裁が続いていたのでムハンマドと敵対する。クルアーンには「アブー・ラハブの両手が断ち切られるように。彼に死を。彼の財産と彼が蓄えたものは、彼の状態の役には立たなかった。まもなく、燃え盛る業火の中に入るだろう。また彼の妻はその薪を燃やし、首にはナツメヤシの繊維でできた縄を巻いている/アル・マサドの章」とだけ言及されている。
ムハンマド(محمد, Muḥammad)はアラビア語の受動分詞で「称賛された、ほめられた」「称賛するに値する(人物)」といった意味を持つ。預言者ムハンマド以前は非常に稀な名前であり、彼がこの名前を持つ最初の人物だったとする説もある。彼への崇敬からイスラム教徒の中で最も多い名前とされ、イスラーム共同体内で非常に高い割合を占める男性名となっている。
これらを全て含めると、21世紀現在、世界の子供の名付けランキングで他の追随を許さない堂々の一位を独占し続けている名前であり、存命の人物、故人いずれであっても有史以来最多の人数を記録し続けている名前である。
実在の人物
- アラーウッディーン・ムハンマド:ホラズムの皇帝。モンゴル帝国に敗れて憤死した。ムハメットとも言う。
- メフメト2世:コンスタンティノープルを征服したオスマントルコ皇帝。
- ムハンマド・アリー:オスマン帝国から独立したエジプトのパシャ。
- モハンマド・レザー・パフラヴィー:共和制移行前のイラン皇帝。我が国と石油外交で親密な関係を築かれ、大勲位菊花章頸飾をお受けになられた。
- モハメド・アリ:アメリカのボクサー。プロ転向後にネーション・オブ・イスラムの信徒と言う事を明かし、ムハンマドと指導者アリーに因む名に変えた事で有名。
- モハメド・ハッタ:インドネシア共和国の初代副大統領。
- ムハンマド・ビン・サルマーン:2022年現在のサウジアラビア王国の事実上の最高政治指導者で、同国の王子・皇太子。麻生太郎、蔡英文などとともに、日本のアニメやマンガ文化をこよなく愛するオタク政治家として知られる。
- モハメド・サラー:エジプトのサッカー選手
架空のキャラクター
- グプタ・ムハンマド・ハッサン:ヘタリアのエジプト。グプタ・ハッサン。
- モハメド・アヴドゥル:ジョジョの奇妙な冒険に登場する占い師。
- モハメド・タバルスィー:シャーマンキングの登場人物。
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夕暮れの広大な砂漠に佇む古代の神殿。キリスト、ブッダ、ムハンマドの三人が、運命に導かれこの地で出会う。それぞれの信念が対話の中で浮き彫りになり、緊張が高まる。彼らは己の道を貫くため、避けられない選択に直面する。1,812文字pixiv小説作品