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「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?」

(関係者からすれば、いつものリップサービスに過ぎなかったこの発言が後にアントニオ猪木との異種格闘技戦の発端となろうとは、誰もが予想だにしなかった・・・・・・)

概要編集

1942年1月17日に「カシアス・クレイ」としてアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルにて誕生。

自転車を盗まれ、警察にいったときに、 ボクシングジムのトレーナーもしていたそこの警官にボクシングを勧められ、彼のジムに入った。

アマチュア時代はケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。

さらに、AAUボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。

そして1960年ローマオリンピックでは金メダルを獲得し、名実ともに"英雄"としてプロライセンスを取得。


プロ転向にネーション・オブ・イスラムの信徒であることをカミングアウトしリングネームを後の本名であるムスリム名「モハメド(ムハンマドとも)・アリ」に改名。

1964年2月25日、当時のWBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンに挑戦。

リストンが優位にもかかわらず、アリは臆せず「のように舞い、のように刺す」と公言。

試合は一方的なものとなり、6R終了時にTKO勝ちとなった。


しかし、ベトナム戦争への徴兵を「俺、ベトコンニガーって言われてないし。」といって拒否した。アメリカの保守派から非難される。徴兵拒否が原因で無敗のまま統一王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを作ってしまったが、1970年の復帰戦で勝利。

1974年にはザイールの首都キンシャサジョージ・フォアマンから統一王座を奪還。当時最強と謳われたフォアマンをKOしたことも含め「キンシャサの奇跡」とも呼ばれた。

また、日本武道館でも2度試合を行い、1976年アントニオ猪木異種格闘技戦を行った際には「世紀の凡戦」とも言われたが、実際はリング外でもルールを巡って攻防戦が繰り広げられる"真剣勝負"だったことが後に猪木の口から公表された。

※詳細⇒猪木アリ状態

このことから、アリのテーマ曲「Ali Bomaye!(アリ、やっちゃえ!)」が猪木に贈られ「イノキ・ボンバイェ」として広く知られることとなった。


1980年までボクサーを続け、7つの王座を取得。通算戦績は56勝(37KO)5敗だった。


その後病を得て暫くは人前に出ることもなかったが、1996年アトランタ五輪聖火点灯のサプライズゲストとして登場。

2012年ロンドンオリンピック開会式にも登場した。


2016年6月3日アリゾナ州病院で74年に亘った激動の生涯を閉じた。


3番目の妻の間に生まれたレイラ・アリは「史上最高の女子ボクサーの1人」と称される女子ボクシング界のビッグネームに育った。彼女は初代WBC世界女子スーパーミドル級王者、元WIBA・IWBF・IBA世界スーパーミドル級統一王者、元IWBF世界ライトヘビー級王者という輝かしい経歴を持ち、24戦24勝21KOの戦績で無敗のまま引退した。孫娘のニコ・アリ・ウォルシュもプロボクサーとなった。


※なお、1978年にはアメリカン・コミックの出版社「DCコミックス」から、本人がスーパーマンと戦う「スーパーマン対モハメド・アリ」が刊行された。

異星人の侵略に対抗するため、スーパーマンとアリとがボクシングで決闘するという内容。公平を期すために、スーパーマンは超能力を封じられ、アリからボクシングを学び、互いに公平な条件で試合に臨んだ。日本語版も当時に刊行されている。



外部リンク編集

モハメド・アリ 語録


関連タグ編集

ボクシング 金メダリスト プロボクサー 世界チャンピオン パーキンソン病


ALI(バンド):名前の由来。


アームストロング・オズマ:こちらは野球選手であるが、徴兵を拒否しなかったアリのIFとも言える架空の黒人男性。

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