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内藤大助

ないとうだいすけ

内藤大助は日本の元プロボクサー、タレント、ボクシング解説者。
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概要編集

1974年生まれ、北海道出身。

母親は、大助を身ごもっている時に夫と離婚。母親はアルバイトで大助と4歳上の長男を養い、後に民宿を始める。

マラソン大会や運動会の徒競走では必ず1位になるなど運動神経抜群で、クラスでは人気者だった。

中学では卓球部に所属。しかし、中学2年になるといじめの標的にされ、胃潰瘍患うまでに追い詰められる。

高校進学でいじめから解放され、ハンドボール部に所属し、3年時には同校初の全道大会出場に貢献した。

しかし就職に失敗、卒業後定職にも就かずだらだらと日々を過ごしていたが、母親に叱咤され上京。

母は予め、生別した実父が経営する工務店に「大助を働かせてやってほしい」と話をつけていたが1年ほど経ったある日、書店で目にしたボクシング雑誌に刺激を受け、下宿先の近くにあった宮田ボクシングジムに入門。「いじめた同級生を見返したい、強くなりたい」思いから始めたボクシングだが母から勘当されてしまう。(その後勘当は解かれた。)


戦歴編集


国内・OPBF王者獲得まで編集

  • 1996年10月11日、プロデビュー戦を1RKO勝ちで飾ると、1998年12月19日、全日本フライ級新人王決定戦で1RKO勝ちし、9勝1引き分けの戦績で新人王を獲得。
  • 2001年7月16日、坂田健史(協栄)の持つ日本フライ級王座に挑戦するも、引き分けで王座獲得ならず(この時明らかに内藤が有利に試合を進めていたとされている。詳細は後述)。
  • 2002年4月19日、敵地タイでポンサックレック・シンワンチャー(タイ、後のポンサクレック・ウォンジョンカム)の持つWBC世界フライ級王座に挑戦し、世界フライ級タイトルマッチ史上最短記録となる1R34秒KO負けを喫する。
  • 2004年6月6日、日本フライ級王者の中野博(畑中)に挑戦。6Rに偶然のバッティングによる負傷判定勝ちを収め、日本王座を獲得。
  • 同年10月11日、小嶋武幸(横浜さくら)を相手に初防衛戦を行い、日本タイトルマッチ史上最短となる1R24秒KO勝ちを収めた。
  • 2005年10月10日、WBC世界フライ級王者ポンサクレック・ウォンジョンカムに再挑戦するも、7R負傷判定で敗れる。
  • 2006年6月27日、OPBF東洋太平洋フライ級王者小松則幸(エディタウンゼント)と、史上初の日本・東洋太平洋統一タイトルマッチを行い、小松を6RTKOで破り、日本・東洋太平洋王座の2冠を達成する。(1回防衛)

小松戦後、2007年1月より野木丈司トレーナーに師事し強化に努める。


WBC世界王者獲得から獲得後編集

  • 2007年7月18日、WBC世界フライ級王座3度目の挑戦で、王者ポンサクレック・ウォンジョンカムに12R判定勝ちし、32歳10か月にして悲願の世界チャンピオンとなる。ポンサクレックはそれまで都合17度WBCタイトルを防衛していた。のちに2度目の防衛戦でもドロー判定にて防衛している。
  • 2007年10月11日、初防衛戦を行い、亀田三兄弟の次男・亀田大毅(当時:協栄)を相手に3-0の判定で勝利。
  • 2008年7月30日に国立代々木競技場第一体育館で、当時の日本王者清水智信(金子)と3度目の防衛戦を行い、10RKO勝利。
  • 2008年12月23日に両国国技館で、元東洋太平洋ライトフライ級王者山口真吾(渡嘉敷)と対戦、11R1分11秒でTKO勝ち。
  • 2009年5月26日、当時WBC世界フライ級10位の熊朝忠(中国)を相手に5度目の防衛戦を行い判定勝ち。負傷の影響で暫定王座となった前王者ポンサクレックとの統一戦の延期が認められた。
  • 2009年11月29日、兼ねてより因縁深かった元WBA世界ライトフライ級王者亀田興毅と対戦、0-3の判定で敗れて王座から陥落した。

その後2010年に一試合したが1年以上試合を行わなかった。元世界王者であるため、JBCの規定でライセンスが失効する37歳を過ぎても再交付の申請は可能だったが申請せず2011年11月12日放送のフジテレビ系番組『ジャンクSPORTS』出演中に現役引退を表明。後日会見を開いた。


因みに対戦相手の内、ポンサクレックと亀田興毅以外に対戦後世界王者に就いた選手が何人かいる。

  • 坂田健史・・・2007年内藤とほぼ同時期にWBA世界フライ級王者を獲得【防衛4】。(現:東京都稲城市議会議員、協栄ジム代表・会長代行。)
  • 亀田大毅・・・2010年、WBA世界フライ級王者獲得【防衛2=返上】。2013年、IBF世界スーパーフライ級王者獲得【防衛0=返上】。
  • 清水智信・・・2011年、WBA世界スーパーフライ級王者獲得【防衛0】。(現:福井県議会議員)
  • 熊朝忠・・・2012年、WBC世界ミニマム級王座獲得【防衛2】。中華人民共和国で初の世界王者に。

プロボクサーとして編集

リーチは173cmで、フライ級では長い部類に入る。ハードパンチャーでもあり、生涯KO率は7割近くに達した。ボクシングスタイルは変則的と称され、常に上体を大きく動かしながらパンチを繰り出し、反動を活かして追撃や回避、あるいはその両方を素早く行う。また、コンビネーションのリズムの変化や豊富なフェイントなども、対戦相手を困惑させる要因となっていた。

このスタイルは「対ポンサクレック特化」であったとも言われ、逆ワンツーと呼ばれる変則的なリズムを崩すための作戦としてポンサクレックを困惑するうえでは極めて有効なものであったと言えただろう。ポンサクレックが生涯通して14戦日本人選手と戦ったが、日本人選手の勝利者は内藤だけであった。


その一方、独特なウィーピングによって顔面のガードが空いてしまうケースが多々あり、亀田興毅や清水智信といったアウトボクサーに対して通用せずかえってカウンターパンチを被弾することもあった。

人物編集

  • 波田陽区と顔が似ている為、亀田大毅との対戦では彼のポスターで波田陽区のネタをパロディにしたメッセージが書かれていた。
  • 前述の坂田とは同時期に世界王者となっていたが、かつて日本タイトルを争った試合後、内藤のジムの同期で仲の良かった大串尋人がナイフのような物を振り回して係員を威嚇しリングのエプロンに上がり、審判控え室に押しかけるという事が発生した。これが原因で大串は引退。その後も遺恨が残った両者は王座統一戦も望まれたが実現せず、内藤が坂田との握手を拒否することもあったという。結局両者とも再戦することなく現役を引退。亀田以上に不仲だったのは実は坂田だったのかもしれない。
  • 「最短男」の異名は先述のポンサクレックとの対戦でのKO負けでは嘲笑的だったが、小嶋にKO勝ちした事で最短がネガティブからポジティブな意味に変化した珍しい例。
  • リング外では気さくで温和だが、本人によると本来はヒールキャラなボクサーを目指していたらしく、ヒールな振る舞いを散々していた亀田大毅に黒星を付けた時に沢山の人から一種のヒーロー的な見方をされたのは実は困惑していたとのこと。
  • 妻の実家の惣菜店には長年恩義があり、劇的ビフォーアフターリフォーム依頼し恩返しをした。
  • ボクシング漫画はじめの一歩のファンである、
  • 2004年に日本チャンピオンになるまで大手ゼネコン長谷工コーポレーションの社員だったため、引退後の2014年から長谷工コーポレーションのCMに元社員として本物の社員に紛れて出演している。⇒詳細はこちら。(youtube公式HP

関連タグ編集

C-C-B・・・入場曲に「Romanticが止まらない」を起用、2008年に再結成した。

トミカヒーロー レスキューフォース・・・レスキューフォースの応援団長を務め、本編終了後のミニコーナーにも複数回出演。また第30話に本人役で出演。


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