概要
プロボクサーとして日本人で初めてミドル級の世界チャンピオン(第19代WBA世界ミドル級王者)を奪取。
現在はタレント、株式会社カンピオーネ代表取締役社長、竹原慎二&畑山隆則のボクサ・フィットネス・ジム会長。
所属事務所はオーバーレコード/太田プロダクション。
来歴
1972年1月25日生まれ、広島県安芸郡府中町出身。
中学時代は柔道部に在籍し、団体戦で県大会優勝を経験しながら、喧嘩にも明け暮れ、あまりの素行不良に地元では「広島の粗大ゴミ」と呼ばれていた。
中学卒業後、高校に進学せず(地元の高校入試を複数校受験したがいずれも不合格)、就職するも仕事は長続きせず、様々な職業を転々とする。
1988年9月9日にプロボクサーを目指して上京。
当時、協栄ボクシングジムに間借りしていた沖ボクシングジム(2004年閉鎖)に入門する。上京後は内装の会社に就職。ボクシングで生計が立つまで同社で働いた。
1989年5月15日の但野正雄戦でプロデビュー。4回KO勝ち。
その後KO勝ちを重ね同年12月、ビニー・マーチンを6R判定で下し、第46代東日本ミドル級新人王を獲得。
翌1990年2月、徳田晴久を2RKOで下し第36代全日本ミドル級新人王になる。
同年11月には朴健洙(韓国)を相手に初国際戦を経験し、1RKO勝ちする。
1991年10月28日、王者・西條岳人に7RKO勝ちし第41代日本ミドル級王者になる。
後の東洋太平洋ライトヘビー級王者・寺地永(後のWBC世界ライトフライ級王者・拳四朗の父)を2RKO、真田雄一(西澤ヨシノリ)とビニー・マーチンをそれぞれ10R判定で下し、3度の防衛を果たして王座を返上。
1993年5月24日、李成天(韓国)に12RKO勝ちし東洋太平洋ミドル級王座を獲得。(1度のノンタイトル戦を挟んで6度防衛。)
1995年12月19日、後楽園ホールでWBA世界ミドル級王者ホルヘ・カストロ(アルゼンチン)に無敗のまま24戦目で世界初挑戦。期待も薄く関東ローカルで深夜に録画放映だった。
しかし試合は3回、竹原が左ボディブローでこれまでダウン経験のない王者からダウンを奪う。その後一進一退の攻防が続き、試合は終了。判定の結果、3-0で竹原が勝利。
1996年6月24日、横浜アリーナで初防衛戦。
ランキング1位ウィリアム・ジョッピー(米国)との指名試合で9RTKO負け。
その後網膜剥離が判明、引退する。
引退後、TBSのバラエティ番組『ガチンコ!』のメイン企画『ファイトクラブ』のコーチ、イタリア料理店『カンピオーネ』の経営(現在は閉店、店名は現在の会社と同じ名前。)、二階級世界制覇の畑山隆則とともにボクサ・フィットネス・ジムを経営、健康と美容の商品開発及び販売等で活動。
また畑山と青森山田高等学校の校長の勧めもあって同校通信課程に入学、卒業している。(畑山も同校全日制を1年で中退していたが、世界チャンピオンになってから同校通信課程に再入学し卒業、系列の青森大学に進学・中退している。)
2007年3月29日から、竹原慎二オフィシャルブログを開始。 締めの語句に「じゃあの。」と付けるのが定例で一時ネットで流行した。
2014年、前年から血尿などの体調不良があり精密検査を受けた結果、膀胱癌が判明。リンパ節への転移も見付かるほど病状が悪化していたが、手術・抗がん剤などの治療を経て、現在は通院を続けながら経過観察中であるがジム経営とタレント業に復帰している。
逸話
- 元ボクサーの父が当時札付きの不良と呼ばれていた竹原の素行に見兼ねて無理矢理ボクシングを始めさせたのがきっかけ。
- 実父は現在広島でボクシングジムを、実母は焼肉店『三甲』を経営している。(下図参照。)
- 通った小学校は宇梶剛士(2年まで)、吉川晃司の出身校でもある。
- 身長186cmの長身を生かしたパンチの威力は、竹原からタイトルを奪ったウィリアム・ジョッピーが後に「竹原のパンチがこれまで一番強かった。」と言わしめるほど。また東洋太平洋ミドル級の6度目の防衛戦で李成天と再戦を行った時8Rに左フックの相打ちでダブルノックダウンが起きている。
- 2005年にテレビ朝日系の正月特別番組『夢対決とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』で卓球の福原愛と対戦する為にとんねるずが当時在学していた青森山田高等学校を訪れ、多くの在校生が見守る中、在校生だった福原と竹原がペアを組んだ。(福原はじめ青森の在校生は全日制、竹原は通信課程。更に証明するかのように竹原の学生証が隅に映し出されていた。)因みにとんねるずが福原へさまざまなハンデを背負わせたものの2勝1敗で福原組が勝利している。
関連動画
上記に記載のダブルノックダウン
外部リンク
竹原テレビ 公式チャンネル - YouTubeチャンネル
渡嘉敷勝男&竹原慎二&畑山隆則 公式チャンネル - YouTubeチャンネル