概要
1943年、樺太生まれ。
本名は「輪島 公一」(読み同じ)リングネームはある試合でリングアナウンサーに「わじま・はむいち」とコールされたためである(本人談)とのこと。
元プロボクサーの輪島大千は次男、元ジャニーズJr.の輪島大生とプロボクサーの磯谷大心は孫 (大生は長男の息子、大心は長女の息子)、大相撲の第54代横綱・輪島大士ははとこ(祖父同士が兄弟。詳細はこちら。)にあたる。
来歴
3歳の時生まれ故郷の樺太がソ連領となり、北海道に移住した。
生活はかなり苦しく、日々の食事にも困っていた上に冬は凍死の危険と隣り合わせであった。あまりに実家の生活が苦しかったため養子に出されたこともある。
中学時代は夕方から明け方までイカ釣り漁で寝る時間は授業中しかない生活だったが、放課後、漁に出るまでの時間、友達と野球をして楽しんでいた。
その当時から輪島は超人的なスタミナや並外れたど根性が培われた。
その後上京、トラックの運転手などいくつかの仕事を経たのち、住み込みの土木作業員として働いていた。
ある日、作業現場からの帰り道にあったことから頻繁に練習風景を眺めていた三迫ボクシングジムに入門。半年後にはプロライセンスを取得するまでに腕を上げる。そしてボクシングを始めて約1年後にあたる1968年6月15日、プロボクサーとしては当時極めて遅い25歳でデビューしその後7連続KO勝ちを収めた。
翌1969年には全日本ウェルター級新人王に。同時に勤務していた建設会社の社長からボクシングでの活躍を認められ、正社員に昇格。
1969年9月4日、日本スーパーウェルター級王座獲得。10月には12戦全勝 (11KO) の勢いに乗って2階級下の世界王者ペドロ・アディグとノンタイトルマッチで対戦したが初回KOで敗れる。
4か月後、輪島は日本王座をジョージ・カーターに奪われるが、2か月後の再戦で王座に復帰した。
1971年10月31日、東京・両国の日大講堂で世界初挑戦。WBA・WBC世界スーパーウェルター級王者カルメロ・ボッシ(イタリア)に挑み 15回判定勝ちを収め、世界王座を獲得した 。
素早いダッキングで相手の視界から消え、次の瞬間跳ね上がるようにしながらパンチを繰り出す「 かえる跳び 」で一躍有名になる。以後通算6度の防衛に成功。
1974年6月4日、7度目の防衛戦でオスカー・"ショットガン"・アルバラード(アメリカ合衆国)と対戦し、最終15回KO負けを喫し、王座から陥落。
ダメージの大きさから一時は医師から引退を勧められるも、退院後間もなく再起に向けトレーニングを再開。現在でいうインターバルトレーニングを導入する。
7か月後の1975年1月21日、アルバラードと再戦。15回判定勝ちで雪辱し、WBA・WBC王座返り咲きに成功。しかし、次期挑戦者を当時WBA世界ランキング1位の柳済斗(韓国)と発表したのに対し、WBCコミッション側は同団体世界ランキング1位だったミゲル・デ・オリベイラ(ブラジル)との対戦を要求、話し合いはつかず2ヵ月後WBC王座を剥奪された。
同年6月7日、初防衛戦で柳済斗と対戦し、7回KO負けを喫しWBA王座から陥落したが翌年2月17日、柳と再戦し15回KO勝ち。2度目の世界王座返り咲きを果たした。
5月18日の初防衛戦でホセ・デュラン(スペイン)に14回KO負けを喫し、三たび世界王座から陥落。
1977年6月7日、3度目の世界王座返り咲きを懸け、WBA王者のエディ・ガソに挑むも、11回KO負け。
結局この試合を最後に引退し、翌1978年春、後楽園ホールにて引退セレモニーを行った。
引退後東京・西荻窪で『輪島功一スポーツジム』を運営。後進の指導に当たる一方、だんご店『だんごの輪島』経営、『東日本ボクシング協会』前会長、さらには芸能界でのタレント活動と幅広く活躍。
現在ジムは次男・大千氏に、だんご店は親族に経営を譲っている。
さらに、孫の磯谷大心は輪島功一スポーツジムから2021年にデビューした。
ボクシングスタイル
輪島のボクシングスタイルはかなり変則的で両腕を回すように動かしつつ不規則なウィービングで上体を振るファイティングポーズから突如繰り出す強烈な左右のストレートで顔面を狙い打つという展開を好んだ。
また、「かえる跳びパンチ」や「あっち向いてホイ」(よそ見パンチ)、自らの眼前に片腕を掲げた後、素早くパンチやダッキングなどに移行する「猫じゃらし」等常識ではありえないテクニックも使用した。
その他エピソード
- 日本王者を5連続KO勝ちで防衛中、伊豆でキャンプを張っている時にアパートが火事になり、押入れにコツコツ貯めていた22万円(現在の価値で言うと220万円近く)が全て灰になってしまう不幸が起きた。
- オスカー・アルバラードとの再戦時、減量に苦しむ王者の前でおでんとビールをパクつき、王者にも勧め心理的に揺さぶりをかけた。また柳済斗との再戦時では、マスクをして現れ、風邪を引いて体調不良であるように装った。
- 世界タイトルマッチ勝利後にファンとの約束でリング上にて自らの持ち歌『炎の男』を披露したこともあり大いに人気を集めた。引退後もテレビ番組などで『炎の男』を披露することがある。