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横綱

よこづな

大相撲において力士の番付上最高位となる称号。「日下開山」。メイン画像は第47代横綱・柏戸剛。
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大相撲において力士番付上最高位となる称号。


2024年1月場所終了時点での現役の横綱は下記の1名である。

第73代照ノ富士春雄 不知火型 幕内最高優勝9回


概要編集

特別な地位であり、土俵入りも大関以下の力士と分けられ、「横綱土俵入り」として、太刀持ち、露払いの2力士を従え登場することで知られる。


横綱審議委員会が定める横綱推薦の内規は次のようになっている。


  1. 横綱に推薦する力士は、品格、力量が抜群であること。
  2. 大関で2連続優勝した力士を横綱に推薦することを原則とする。
  3. 第2項に準ずる好成績を挙げた力士を推薦する場合は、出席委員の3分の2以上の決議を必要とする。
  4. 品格については、協会の確認に基づき審議する。

この基準は1958年に定められたものであるが、その条文の解釈及び運用は時代によって変わっている。特に、双羽黒(横綱昇進前の四股名は「北尾」)を準優勝1回、優勝同点1回で横綱昇進させ、結局優勝を一度もしないままトラブルで廃業となったという事態が発生して以降、鶴竜の昇進以前は2場所連続優勝が事実上の絶対条件となり、第3項の規定は考慮されないに等しい情勢となっていた。


大関以下と比べて、どんなに負け越しても地位が陥落しない、とあるが、実際は最低でも10勝以上挙げることが求められ、9勝以下で終わった時は厳しい批判を受ける場合が多い。負け越すとその進退が問題になる(※)。1958年以降、横綱で皆勤の上負け越したのは大乃国、若乃花(3代)の2例があるが、負け越す前に休場するのが通例であり、貴乃花は膝の大怪我のため7場所連続全休をした事がある(休場明けは優勝次点ではあったが、その次が全休の後、4勝4敗で引退した)。


最近では(品位はともかく)朝青龍、白鵬と好成績を残す横綱が続いているので、成績面では問題とされることは少ない。


※……実際に成績不振により「激励」を決議されたのは、2018年11月場所後、稀勢の里に対してのみである。稀勢の里は翌場所中に引退した。また、引退勧告書を提出されたのは暴行事件を起こした朝青龍(そのタイミングで引退)のみで、前述の大乃国が負け越した時には直ちに引退を申し出たものの、当時の二子山理事長(元横綱・初代若乃花)が「初心に帰ってやり直せ」と一喝し、これを許さなかった。なお、2017年11月に不祥事のため引退した日馬富士に対しては「引退勧告相当」との判断を下している。2020年11月場所後にはここ数年休場が多いとして白鵬と鶴竜に対して初めて「注意」の決議がなされた。


同時昇進の場合編集

2人以上の力士が同時に横綱に昇進した場合、先に引退した方を先代としている。これは常陸山谷右エ門と2代目・梅ヶ谷藤太郎が同時昇進した時、常陸山を先代としたが、結局は常陸山が先に引退し、これ以降は先に引退した方を先代と位置付けるようにしたためである。

横綱大関編集

何らかの事情により大関が1名以下になった場合、番付記入上の措置として、時の東西正横綱が大関を兼務する「横綱大関」という表記が為されることがある。直近では2020年3月場所において大関が貴景勝1名となったため、西横綱の鶴竜が横綱大関として番付表に記載された。これは、1981年11月場所、北の湖が「横綱大関」として番付表に掲載されて以降、38年半ぶりのことである。なお、横綱大関となった横綱は、当然のことながら番付表記以外では横綱として扱われる。


引退後編集

日本国籍を持つ横綱の場合、年寄名跡を持っていなくても引退後5年間は現役時の四股名のまま親方として協会に残る事が出来る。引退後1年を経過すれば、部屋の師匠の了承の下、部屋の新設が許可される。また、功績顕著(優勝20回以上が目安)の横綱の場合は、いわゆる一代年寄として当該横綱一代に限って、現役時の四股名を用いた特別な年寄名跡が与えられる。功績顕著の一代年寄には、大鵬、北の湖、貴乃花がいる。千代の富士は本人の意向により一代年寄を辞退した。


横綱土俵入り編集

現役横綱の特権及び責務として、幕内力士とは独立して本場所の幕内取組前や巡業に於いて行う土俵入りの儀式である。片屋入りと呼ばれることもある。現在は雲龍型(メイン画像参照)と不知火(しらぬい)型(せり上がる時に両腕を広げる)の二つの型が伝わっている。但し、指導する親方や横綱自身による個人差が見られる。


いずれの型に於いても冒頭に記されている通り、太刀持ち・露払いを従えるが、これを務める力士は同部屋あるいは同じ一門の関脇以下の幕内力士から選ばれることが近年の慣例となっている(大関が務めることが禁じられている訳ではない)。このうち、番付上位の力士が太刀持ちを務める。

 

例えば、日馬富士の場合は、同部屋の兄弟弟子である安美錦と宝富士をそれぞれ太刀持ち・露払いに起用している。白鵬の場合は同じ伊勢ヶ濱一門に属する友綱部屋の魁聖らがこれらを務めていたが、2014年1月場所後の一時期、白鵬の師匠・宮城野親方と、旭天鵬・魁聖の師匠である友綱親方との理事選挙造反トラブルが原因で、太刀持ち・露払いが豊ノ島(時津風部屋:時津風一門)と臥牙丸(木瀬部屋:出羽海一門)に変更される異例の事態になっていた(※1)。2014年3月場所の白鵬の土俵入りについては、魁聖と旭天鵬の組み合わせに戻ると友綱部屋のブログに書かれていたが(※2)、実際に本場所の土俵入りに太刀持ち・露払いとして登場したのは豊ノ島と臥牙丸であった。


横綱の所属部屋以外から太刀持ち・露払いを起用する場合、どちらか一方が横綱と対戦するときは当該力士が、あるいは太刀持ちと露払いの力士で対戦が組まれる時はどちらか一方が、その日に限りその任を外れる。


※1……伊勢ヶ濱部屋、友綱部屋以外の伊勢ヶ濱一門の幕内力士には追手風部屋の遠藤がいるが、当時は大銀杏が結えなかったので、太刀持ちや露払いを務めることが実質的にはできない。白鵬と同じ宮城野部屋の大喜鵬(当時)が幕内に在位していたときも、大銀杏が結えなかったので露払いを務めることができなかった。

※2……友綱部屋ブログ『みんなの部屋』より「土俵入り」


横綱土俵入りの型について編集

二つの型の内、不知火型は短命横綱のジンクスがあるとして人気がない。事実、不知火型を選択した力士は、現役中に死去した玉の海、30歳を過ぎて昇進し、型の保存の目的で継承した琴櫻と隆の里、全盛期を過ぎていた旭富士(現・伊勢ヶ濱親方)、若乃花勝、トラブルで廃業した双羽黒、日馬富士がいる。


しかし、2007年に横綱に昇進した白鵬が、2017年11月場所終了時点で歴代最多となる40回の優勝を記録、2012年に昇進した日馬富士も引退までに9回の優勝を記録し、この悪いイメージは払拭されつつある。不知火型の横綱が複数同時に在位するのは、白鵬と日馬富士のケースが初めてであるが、2017年11月時点では、不知火型の土俵入りを経験した在職中の年寄が伊勢ヶ濱親方(第63代横綱・旭富士)しかおらず、やむなく引退した日馬富士は相撲界を離れ、型の継承が危ぶまれる状態にあった。もっとも、2019年に不知火型の横綱である白鵬が日本国籍を取得し引退後に親方として活動する条件である年寄襲名資格を得ており、2021年9月の引退後は年寄・間垣として協会に残り、このリスクは薄れた。その後も旭富士の弟子である照ノ富士が2021年の名古屋場所後に横綱に昇進した際、師匠と同じ不知火型を選択し、更に同年8月に日本国籍を取得している。


なお、横綱在位期間(場所数ではない)歴代2位の記録を持つ36代横綱・羽黒山政司も不知火型の土俵入りを行っていた。

  • 現在伝わっているのは上記の二つの型であるが、過去にはこの二つに当てはまらない型の土俵入りをする横綱もいた。また、「雲龍型」と「不知火型」が、かつては逆の型を指していたのではないか、との指摘もあり、今日の定着に至るまで混乱があったようだ。
  • 雲龍型、不知火型両方の土俵入りを経験したのは、北の富士と白鵬である。北の富士の場合は二班に分かれて行われていた巡業中に、別の班で巡業していた横綱玉の海が入院し、急遽玉の海の班に合流して土俵入りを行うことになったが、その際に諸事情で玉の海の綱を使うことになった為である。白鵬は双葉山生誕100周年を記念して大分県の宇佐神宮で行われた奉納土俵入りに際し、双葉山への敬意を表するとして雲龍型の土俵入りを行った。

還暦土俵入り編集

原則として、引退相撲を最後に横綱土俵入りが出来なくなるが、満60歳を迎えた時に、長寿を祝い赤い綱を締めて還暦土俵入りを行うことがある。健康状態その他の事情によって、赤い綱だけを受け取り土俵入りそのものは行わなかったり、土俵入りが完全なものにならなかったりするケースがある。引退相撲及び還暦土俵入りに於いて、横綱経験者が太刀持ち・露払いを務める場合(このときは二人のうち、先に横綱に昇進した者が太刀持ちを務める)は、自らも綱を締めて土俵に上がる。

 

無類力士

明治時代に定められた、いわば特別枠

横綱制度ができる前に存在していた力士の中で、横綱に相応しい実力者と認められた強者に与えられた称号であり、富岡八幡宮の石碑に刻まれている。ただしこれに列されているのは雷電為右衛門ただ一人であり、角界史上最高峰の勝率(96.2%)を誇った彼に対する最大級の敬意というべきなのかもしれない。

 

なお師匠の谷風梶之助は四代目、弟子の稲妻雷五郎は七代目の横綱に数えられているが、雷電の生きていた当時横綱はまだ正式な制度化に至っていなかった(制定されたのは彼の没後)。そのため横綱といえども単なる勲章・称号に過ぎず、えらい人の独断と偏見で選出されるものであった。

  

歴代横綱編集

※基本的に和暦で記載。明治5年までは陰暦。

太字は還暦土俵入りを行った横綱。

※出身地は現在の都道府県(外国出身力士は出身国)で示した。

個別記事がある横綱については、詳しくは記事を参照。


江戸時代編集

代数四股名出身地横綱在位期間優勝解説
初代明石志賀之助栃木県不詳不詳江戸時代初期の力士。身長251cmという規格外の大男で、相撲の四十八手を編み出したと伝わる。その強さを讃え、朝廷によって日下開山と称された。……が、肝心の記録は非常にあやふやで、本当に実在したのかは不明。
2代綾川五郎次栃木県不詳不詳身長2mもある大男だったと伝わる。生没1706~65とされ、明石から100年も経った頃の人物ということになるが、確かな記録がほとんどない。
3代丸山権太左衛門宮城県不詳不詳明石・綾川と異なり確かに存在した人。やはり2m近い大男で、相撲は下手だったが突っ張りが強く、横綱に相応しい実力者だったとされる。なお綾川五郎次と丸山権太左衛門は本名。
4代谷風梶之助宮城県寛政元 (1789) 年11月~寛政6 (1794) 年11月21回事実上の初代横綱で、あの雷電為右衛門の師(そして驚異の勝率約94%は彼に次ぐ大記録)。ちなみにその強さと人間性から「谷風」の四股名は止め名、つまり永久欠番扱い。例によって相当な大男で、遺骨から推定される背丈は192cm。
5代小野川喜三郎滋賀県寛政元年11月~寛政9 (1798) 年10月7回谷風梶之助とともに寛政の勧進相撲の繁栄に貢献。この勧進相撲とは寺社仏閣の建立・修繕のための資金を集めるべく催された興行で、現在の大相撲興行のルーツ。
6代阿武松緑之助石川県文政11 (1828) 年3月~天保6 (1835) 年10月5回19世紀初の横綱。5代横綱小野川以来約30年ぶりの横綱。
7代稲妻雷五郎茨城県文政12 (1829) 年9月~天保10 (1839) 年11月10回19世紀生まれ初の横綱。阿武松と競い合い江戸時代後期の相撲黄金時代を築き上げた。雷電為右衛門が見出だした逸材。
8代不知火諾右衛門熊本県天保11 (1840) 年11月~天保15 (1844) 年1月1回横綱から (関脇へ) 陥落した唯一の力士
9代秀の山雷五郎宮城県弘化2 (1845) 年9月~嘉永3 (1850) 年3月6回163cmの低身長ながら横綱に登り詰めた。
10代雲龍久吉福岡県文久元 (1861) 年9月~元治2 (1865) 年2月7回雲龍型の開祖
11代不知火光右衛門熊本県文久3 (1863) 年10月 ~ 明治2 (1869) 年11月3回不知火型の開祖
12代陣幕久五郎島根県慶応3 (1867) 年1月~慶応3年11月5回江戸時代最後の横綱。


明治時代編集

代数四股名出身地横綱在位期間優勝解説
13代鬼面山谷五郎岐阜県明治2 (1869) 年2月~明治3 (1870) 年11月7回明治時代初の横綱。43歳での横綱昇進は史上最高齢
14代境川浪右衛門千葉県明治10 (1877) 年2月~明治14 (1881) 年1月5回引退後は明治維新後に衰退した相撲界を支えた功労者。
15代梅ヶ谷藤太郎 (初代)福岡県明治17 (1884) 年2月~明治18 (1885) 年5月9回歴代最長寿の横綱。相撲道中興の祖。
16代西ノ海嘉治郎 (初代)鹿児島県明治23 (1890) 年5月~明治29 (1896) 年1月2回番付表に初めて「横綱」と明記された力士。
17代小錦八十吉 (初代)千葉県明治29 (1896) 年5月~明治34 (1901) 年1月7回記事参照。
18代大砲万右エ門宮城県明治34 (1901) 年5月~明治41 (1908) 年1月2回20世紀初の横綱および明治生まれ初の横綱。引き分けの多さから「分け綱」と呼ばれた
19代常陸山谷右エ門茨城県明治37 (1904) 年6月~大正3 (1914) 年5月8回大相撲に武士道の精神を持ち込み、地位を高めたことから、「角聖」と称される。弟子に対しても「力士は力の侍である」という信念に基づく厳しい指導を行い、出羽ノ海部屋 (後の出羽海部屋) を一大勢力に育て上げた。
20代梅ヶ谷藤太郎 (二代目)富山県 明治37 (1904) 年6月~大正4 (1915) 年6月3回11年に渡り横綱を務め、常陸山と「梅常陸時代」を築いた。
21代若嶌權四郎 (大阪)千葉県明治38 (1905) 年4月~明治40 (1907) 年1月4回初の大阪相撲出身の横綱
22代太刀山峯右エ門富山県明治44 (1911) 年6月~大正7 (1918) 年1月11回『四十五日の鉄砲』と恐れられた程の強烈な突っ張りで、56連勝を記録した。史上初の還暦土俵入りを行った。

大正時代編集

代数四股名出身地横綱在位期間優勝解説
23代大木戸森右衛門 (大阪)兵庫県大正2 (1913) 年1月~大正3 (1914) 年1月10回大正初の横綱。大坂相撲の第一人者。
24代鳳谷五郎千葉県大正4 (1915) 年6月~大正9年(1920年)5月2回一度家業を継ぐために廃業 (引退) するも復帰して横綱にまで登り詰めた。
25代西ノ海嘉治郎 (二代目)鹿児島県大正5 (1916) 年2月~大正7 (1918) 年5月1回引退後、初代から井筒部屋を引き継いで繁栄を築くも、日本相撲協会の役員改選で談合を破ったことが原因で自殺。
26代大錦卯一郎大阪府大正6 (1917) 年5月~大正12 (1923) 年1月5回入幕から僅か5場所で太刀山を破り横綱に昇進するも、三河島事件の責任をとる形で突然廃業してしまう。
27代栃木山守也栃木県大正7 (1918) 年2月~大正14 (1925) 年5月9回出羽海部屋三羽烏。体重103kgという史上最軽量の横綱。三連覇を果たすも突如引退を表明し、名門・春日野部屋を創設した。
28代大錦大五郎 (大阪)愛知県大正7 (1918) 年5月~大正11 (1922) 年1月6回大関時代に二枚鑑札 (現役力士が年寄を兼務すること) を経験した力士。26代の大錦卯一郎との取組もあった。
29代宮城山福松 (大阪)岩手県大正11 (1922) 年5月~昭和6 (1931) 年1月6回大阪相撲最後の横綱。
30代西ノ海嘉治郎 (三代目)鹿児島県大正12 (1923) 年5月~昭和3 (1928) 年10月1回昇進時の四股名は『源氏山大五郎』。横綱在位中は心臓発作を含め病と怪我に苦しみ、在位15場所中僅か3場所しか皆勤できなかった。
31代常ノ花寛市岡山県大正13 (1924) 年5月~昭和5 (1930) 年5月10回27代横綱栃木山の兄弟子。元力士としてはじめて日本相撲協会理事長に就任。戦後間もない東京で大相撲の復興を手掛けた。

昭和時代 (戦前・戦中)編集

代数四股名出身地横綱在位期間優勝解説
32代玉錦三右エ門高知県昭和8 (1933) 年1月~昭和13 (1938) 年5月9回昭和初の横綱。若い頃は酒やケンカで問題を起こすことも多かったが、猛稽古と豪放磊落な性格で二所ノ関部屋を大部屋へと育て上げた。土俵入りは「動く錦絵」と絶賛されたが、腹膜炎の悪化により現役死。仰向けのまま土俵入りを行い、最後の拍手を打ったところで息絶えたという。
33代武藏山武神奈川県昭和11 (1936) 年1月~昭和14 (1939) 年5月1回近代的な容貌と怪力で人気を集めたが、横綱昇進後は右腕の負傷のために1場所しか皆勤できず「悲劇の横綱」と呼ばれた。
34代男女ノ川登三茨城県昭和11 (1936) 年5月~昭和17 (1942) 年1月2回読みは「みなのかわ」で、四股名は百人一首にも選ばれる陽成院の歌から採られた。魁偉な容貌で注目を集めた。引退後は角界を去って職を転々とし、最後はかつてのファンが経営する料理店の従業員として生涯を終えた。
35代双葉山定次大分県昭和13 (1938) 年1月~昭和20 (1945) 年11月12回記事参照。
36代羽黒山政司新潟県昭和17 (1942) 年1月~昭和28 (1953) 年9月7回両国で銭湯の従業員として働いていたところを、親方の目に留まりスカウトされるという異色の経歴を持つ。入門後は序の口から十両まで各段を全て1場所で通過するというスピード出世で入幕を果たした。他の力士の危機を何度も救う人格者としても知られる一方、相撲の美しさに厳しかったという。
37代安藝ノ海節男広島県昭和18 (1943) 年1月~昭和21 (1946) 年11月1回双葉山の連勝を69で止めた力士。その一番を切っ掛けに横綱を目指し、四年をかけて横綱に昇進した。
38代照國萬藏秋田県昭和18 (1943) 年1月~昭和28 (1953) 年1月2回安藝ノ海と同時に横綱昇進。リズミカルな取り口は「桜色の音楽」と呼ばれた。ちなみに照ノ富士の「照」は照國に由来する (照國も照ノ富士も同じ伊勢ヶ濱部屋)。

昭和時代 (戦後)編集

代数四股名出身地横綱在位期間優勝解説
39代前田山英五郎愛媛県昭和22 (1947) 年11月~昭和24 (1949) 年10月1回戦後初の横綱。右腕切断の危機や9年の大関経験、二枚鑑札などを経て横綱に昇進するが、野球観戦 (シールズ事件) が原因で横綱として短命に終わる。その後は高砂親方として高砂部屋を名門にし、海外にも相撲を広めた。
40代東富士欽壹東京都昭和24 (1949) 年1月~昭和29 (1954) 年9月6回東京生まれで初の横綱だったことから「江戸っ子横綱」と呼ばれた。大相撲の優勝パレードの元祖。
41代千代の山雅信北海道昭和26 (1951) 年9月~昭和34 (1959) 年1月6回北海道生まれ初の横綱にして、相撲協会が独自に推挙した最初の横綱。『太刀山の再来』と評される程の突っ張りと、『鉄骨のやぐら』と称されるほどの、細身ながら筋骨隆々な体が特徴だった。引退後は年寄・九重を襲名し出羽海部屋所属になるが、出羽海一門破門と引替えに独立して九重部屋を創設 (後に高砂一門に入る)、北の富士を横綱にし、千代の富士をスカウトした。
42代鏡里喜代治青森県昭和28 (1953) 年3月~昭和33 (1958) 年1月4回「動く錦絵」と呼ばれるほどの土俵入りで人気だった。
43代吉葉山潤之輔北海道昭和29 (1954) 年3月~昭和33 (1958) 年1月1回幕下時代に兵役に召集され、死亡説も流れたが、戦後に復員し4年間のブランクを経て土俵に復帰した。何度も優勝を逃し、綱取りを阻まれるも、昭和29年1月場所で全勝し悲願の初優勝を果たして横綱に昇進した。引退後は宮城野部屋を創設。ちなみに白鵬は吉葉山の孫弟子にあたり、白鵬が初めて奉納土俵入りした際に使用した化粧まわしは吉葉山が現役時代に使用したもの。
44代栃錦清隆東京都昭和30 (1955) 年1月~昭和35 (1960) 年5月10回大関昇進以前は多彩な技や巧さから技能賞の常連だった (技能賞受賞回数は歴代2位の9回)。初代若乃花とは初顔合わせの時から激戦を繰り広げ、「栃若時代」と呼ばれる黄金時代を築いた。引退後は年寄・春日野として後進の指導に当たり、相撲協会理事長も務めた。
45代若乃花幹士 (初代)青森県昭和33 (1958) 年3月~昭和37 (1962) 年3月10回記事参照。
46代朝潮太郎 (三代目)鹿児島県昭和34 (1959) 年5月~昭和36 (1961) 年11月5回記事参照。
47代柏戸山形県昭和36 (1961) 年11月~昭和44 (1969) 年7月5回記事参照。
48代大鵬幸喜北海道昭和36 (1961) 年11月~昭和46 (1971) 年5月32回記事参照。
49代栃ノ海晃嘉青森県昭和39 (1964) 年3月~昭和41 (1966) 年11月3回小兵ながら厳しい稽古で鍛えられ、一級品の巧さが特徴の横綱だったが、ケガが相次ぎ28歳の若さで引退。実は大鵬の難敵でもあった。
50代佐田の山晋松長崎県昭和40 (1965) 年3月~昭和43 (1968) 年3月6回「平幕優勝した力士は横綱や大関に昇進できない」というジンクスを破り横綱昇進を果たす。幕内最高優勝6回。引退後は義父の出羽海(元前頭筆頭出羽ノ花)から年寄株を受け継ぎ部屋を継承。出羽海一門の不文律だった「不許分家独立」をやめ、関脇・出羽の花、小結・大錦、佐田の海、舞の海などを育てた。特に舞の海に関しては異例の指導を行い、「技のデパート」を開花させたことでも知られる。92年に理事長に就任し、協会改革を行った。
51代玉の海正洋愛知県昭和45 (1970) 年3月~昭和46 (1971) 年9月6回記事参照。
52代北の富士勝昭北海道昭和45 (1970) 年3月~昭和49 (1974) 年7月10回記事参照。
53代琴櫻傑將鳥取県昭和48年(1973年)3月~昭和49年(1974年)7月5回「猛牛」と呼ばれた激しい押し相撲が持ち味。32歳2ヶ月の高齢で横綱に昇進し「姥桜の狂い咲き」として話題になった。引退後は佐渡ヶ嶽部屋を継承し、熱心な勧誘と厳しくも面倒見の良い指導で数多くの関取を育てあげ、一時期『佐渡ヶ嶽軍団』と呼ばれるほどの最大勢力を築いた。大関・琴ノ若傑太は孫にあたる。
54代輪島大士石川県昭和48 (1973) 年7月~昭和56 (1981) 年3月14回記事参照。
55代北の湖敏満北海道昭和49 (1974) 年9月~昭和60 (1985) 年1月24回記事参照。
56代若乃花幹士 (二代目)青森県昭和53 (1978) 年7月~昭和58 (1983) 年1月4回記事参照。
57代三重ノ海剛司三重県昭和54 (1979) 年9月~昭和55 (1980) 年11月3回入門当初は異口同音に「1週間で逃げる」とまで言われた凡百の期待薄の弟子であったが、31歳の遅咲きで横綱に昇進。引退後は武蔵川部屋を創設し、横綱・武蔵丸や大関・出島武双山雅山をはじめとする関取を育て日本相撲協会の理事長にも就任した。
58代千代の富士北海道昭和56 (1981) 年9月~平成3 (1991) 年5月31回記事参照。
59代隆の里俊英青森県昭和58 (1983) 年9月~昭和61 (1986)年1月4回千代の富士の天敵にして「ポパイ」の愛称があるほどの怪力を誇る横綱。二代目若乃花と同時に入門。若い頃の不摂生が祟り糖尿病を発症、その苦しみに耐えながら30歳11ヶ月で遅咲きの横綱昇進を果たし、おしん横綱」と呼ばれた。引退後は年寄・鳴戸を襲名して稀勢の里若の里隆乃若髙安らを育て上げたが、稀勢の里の大関獲りだった平成23 (2011) 年九州場所前に急死。59歳。
60代双羽黒光司三重県昭和61 (1986) 年9月~昭和62 (1987) 年11月なし記事参照。
61代北勝海信芳北海道昭和62 (1987) 年7月~平成4 (1992) 年3月8回記事参照。
62代大乃国北海道昭和62 (1987) 年11月~平成3 (1991) 年7月2回記事参照。


平成時代編集

代数四股名出身地横綱在位期間優勝解説
63代旭富士正也青森県平成2 (1990) 年9月~平成4 (1992) 年1月4回記事参照。
64代曙太郎アメリカ合衆国平成5 (1993) 年3月~平成13 (2001) 年1月11回記事参照。
65代貴乃花光司東京都平成7 (1995) 年1月~平成15 (2003) 年1月22回記事参照。
66代若乃花勝 (三代目若乃花)東京都平成10 (1998) 年7月~平成12 (2000)年3月5回記事参照。
67代武蔵丸光洋アメリカ合衆国平成11 (1999) 年7月~平成15 (2003) 年11月12回記事参照。
68代朝青龍明徳モンゴル平成15 (2003) 年3月~平成22 (2010) 年1月25回記事参照。
69代白鵬モンゴル平成19 (2007) 年7月~令和3 (2021) 年9月45回記事参照。
70代日馬富士公平モンゴル平成24 (2012) 年11月~平成29 (2017) 年11月9回記事参照。
71代鶴竜力三郎モンゴル平成26 (2014) 年5月~令和3 (2021) 年3月6回記事参照。
72代稀勢の里茨城県平成29 (2017) 年3月~平成31 (2019) 年1月2回記事参照。

令和時代編集

代数四股名出身地横綱在位期間優勝解説
73代照ノ富士春雄モンゴル令和3 (2021) 年9月~   9回(暫定)記事参照。


創作作品に登場する架空の横綱編集

  • 播磨灘勲 漫画『ああ播磨灘』の主人公。破天荒な人物で角界の伝統を尽く批判し第1話より一度でも負けたら引退すると言い放ち作中で連勝街道を続ける。
  • 太刀風貢 漫画『ああ播磨灘』に登場。「平成の双葉山」と呼ばれる大横綱で千秋楽にて播磨灘に立ちふさがる。
  • 北道山剛 漫画『ああ播磨灘』に登場。角界一の怪力を持つが播磨灘に敗れたのを恥じて自ら名誉大関に降格した。
  • 大江川康 漫画『ああ播磨灘』に登場。作中で唯一播磨灘との対戦で水入りに持ち込むが播磨灘相手に連敗を続けて廃業した。
  • 大和国清一 漫画『火ノ丸相撲』に登場。作中では既に引退し一代年寄大和国親方となっている。幕内優勝回数は31回を誇る。
  • 刃皇 漫画『火ノ丸相撲』に登場。モンゴル出身で通算優勝数が40回を超える大横綱。
  • 泡影 漫画『バチバチ』に登場。作中における第72代横綱でモンゴル出身で日本人を母親に持つ。
  • 若吉葉 漫画『美味しんぼ』に登場。大原社主と海原雄山が後援会会員を務めている。土俵入りは不知火型。ぶちかましてからの怒涛の寄り身を得意とし、複数回の優勝も果たしている。

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