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北尾光司

きたおこうじ

元大相撲力士(第60代横綱双羽黒)、プロレスラー、総合格闘家(1963年 - 2019年)。「スポーツ冒険家」の肩書きでタレント活動をしていたこともあった(メイン画像左上)。
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人物編集

1963年8月12日生まれ。本名同じ。

三重県津市出身。

大相撲時代編集

「入門後5年以内に関取になれなかったら戻ってくる」との条件付き(建設会社を営む両親は三重高校の進学を望んでいたという)で、中学校卒業と同時に小学校時代から何かと御世話になった事がある立浪部屋に入門し、昭和54年(1979年)3月場所で初土俵を迎えた。この年に初土俵を踏んだメンバーは後に「花のサンパチ組」と呼ばれる様になり、自身もその一人となった。身長2m、体重160kgの恵まれた体躯もあり、瞬く間に頭角を現していった。


ただ一方で一人っ子として両親に甘やかされ、育てられた事が災いして、少しでも稽古がきつかったりしたら「実家に帰らせて頂きます」と師匠の立浪(元関脇・安念山治)に言ったり(実際に1度だけ本当に帰った事があり、この時は父親にかなり厳しく叱責されて部屋に戻らされ、部屋では罰として1年間トイレ掃除の担当を課せられている)、また喫茶店に入って稽古をサボる等の問題行動が見られ、師匠がそれを注意しない事もあり、周りも見てみぬふりを決めていたという。但し、高砂部屋への出稽古や隠れ稽古だけは絶対に欠かさず行っており、それが為に実力も付いていったと言われている。


そして大関で迎えた昭和61年(1986年)7月場所で14勝1敗の成績を挙げ、横綱昇進討議の対象となった。

横綱審議委員会の中からは「稀に見る逸材で将来性がある」(高橋義孝)や「素質は十分」(大鵬幸喜)という意見が挙がる一方で「一度も優勝経験の無いまま昇進するのはおかしい」(稲葉修)という反対意見も挙がった(更に稲葉は『身体面は立派だが精神面で弱い所がある』、『心・技・体のうち、北尾は心が駄目だ』と指摘して、最後まで北尾の横綱昇進には反対している)が、結局は多数決によって横綱昇進が決定。四股名を「双羽黒光司」(ふたはぐろ こうじ)と改め、当時22歳11ヶ月での昇進となった。


横綱昇進後の双羽黒は全盛期の千代の富士と度々優勝争いを展開しており、ファンからも問題面はあるものの優勝は出来ると期待をされていた。しかし1987年12月27日の夜に師匠立浪と大喧嘩し(稽古の後に食べた若い衆の作ったちゃんこの味付けが酷く、双羽黒が『あんなちゃんこが食えるか!!』と激怒。双羽黒は師匠にキチンと若い衆にちゃんこの作り方を指導して欲しいと頼み込むも、師匠は取り合わず、逆にこれまで若い衆に酷い仕打ちをして来た事に謝罪をしてからだ(※1)と双羽黒に言った所、これに双羽黒は納得がいかず、反発したのが原因と言われている)、仲裁に入ったおかみさんを突き飛ばして逃走(※2)。廃業届を提出して受理され、あっさりと廃業(※3)が決定してしまった。


尚、対戦成績が(双羽黒《北尾》から見て)6勝8敗(優勝決定戦を含めた場合は6勝10敗)とほぼ互角のぶつかり合いを展開して来た千代の富士は後年、朝日新聞のインタビューで「もし(双羽黒が)廃業していなかったら、自分は横綱の地位にこれだけ長く留まれていたのかは分からない。又その後の53連勝を初め、通算1000勝や優勝31回も達成出来なかったかも知れない」「それだけにあの廃業事件は、自身にとっても本当に残念な出来事だった」と、その素質と強さを認めるコメントを出し、双羽黒の廃業を惜しんだ。


(※1)若い衆をエアガンの的にして遊ぶ等の苛め行為を犯しており、これが為に双羽黒の付け人7人のうち6人が巡業中に集団で脱走する事態が起こり(付け人集団脱走事件)、1週間後に5人が帰って来て双羽黒が直接謝罪したものの、戻らなかった1人はそのまま廃業したと当時のニュース報道で伝えられた。


(※2)但し双羽黒自身は、「部屋脱走を試みるも女将が止めに入ったため、それを振り切る形で部屋を後にした。」と著書「北尾光司の相撲界言い捨て御免」で記して暴力行為を完全否定しており、更に「親方がそれを見て『(おかみさんに)暴力を振るった』と新聞記者を煽って大騒ぎになった」と記載している。この件では立浪と双羽黒の言い分が大きく食い違っており、更に被害者側(特におかみさん)からの公的な告訴が無かった事などから、師匠立浪の発言に関して信憑性を疑う余地もある。双羽黒本人が引退後にバラエティ番組に出演した際は、「殴っていないとしても、実は足で蹴ったりしたんでしょう」と茶化された事もあったが、双羽黒は苦笑しながら「腕力を自慢する訳では無いが、僕のような大男が女性(女将)を殴ったら少々の怪我では済まされない。場合によっては命に関わるでしょう」と返答し、おかみさんへの暴力行為は頑なに否定した。


(※3)この廃業騒動以降、横綱の昇進条件に「大関で2場所連続優勝またはそれに準ずる成績」が加わることとなった。ちなみに「それに準ずる」の要件を満たして優勝1回で昇進できたのは鶴竜稀勢の里照ノ富士だけである。


プロレスラー・総合格闘家時代編集

その後は「スポーツ冒険家」などと称してタレント活動を続けていたが、1990年2月10日新日本プロレスからプロレスラーとしてデビュー。対戦相手のクラッシャー・バンバン・ビガロに何とか勝利こそしたものの、あまりのしょっぱい試合展開に会場からは大ブーイング。その後はまたしても度重なるトラブル(※4)の末に新日から契約を解除されてしまう。


(※4)相手の技を受けない、セル(相手からの技を受けた後、大袈裟に受け身をする事)を取らない、首や腰が『痛い痛い』と言ったり、『今日は体調が悪い』と言って練習を度々休むと云った他、極めつけは当時の新日本の現場監督である長州力から『プロレスラーは常に多少なりとも故障を抱えて試合に臨んでいる。フロントがどう言おうと、練習しない奴は試合で使わない』と通告した事に対して『何か文句があるなら勝負(喧嘩)して、負けたら言うことを聞く』『怖いのか?この朝鮮人野郎!!』と長州に対しての民族差別発言を含む、度の過ぎた暴言が契約解除の決め手となった。


続いて新団体のSWSに移籍するが、対戦相手のジョン・テンタ(元幕下琴天山)に反則負けを喫した際にマイクを奪い「八百長野郎、この野郎!!八百長ばかりしやがって!!」と大絶叫、また観客にも「お前ら、こんなもの見て面白いのか!!」と悪態をついてしまった(その後、強烈なブーイングを背に受けて引き揚げた際には関係者に全く悪びれる事無く『どうだ、盛り上がっただろ?』と満足気に話したという)。この行動を問題視され、半ばプロレス界から追放同然の形で解雇されてしまった(※5)。


(※5)但し、北尾の没後の2019年5月24日に、当時控室にいた船木誠勝が動画サイトで舞台裏を証言しており、それによると、試合直後の控室で一連の言動を注意した現場監督の田中八郎社長(SWS主催元であるメガネスーパーの代表取締役社長)の夫人に対し、北尾が「うるせえババア!!」等の罵声を浴びせた上に椅子を投げつける暴挙に及んだという。椅子が直撃していれば怪我では済まなかったこの行為に、船木は例の八百長発言よりも悪質だったと述べている。また田中社長本人はこの日を境にレスラーへの態度を一変させてしまったという。只、この件については当時は報じられていなかった。


解雇から凡そ1年後、今度はUWFインターナショナルから総合格闘家としてマット界に復帰。この時は試合後にリングの四方に深く礼をする等の作法を身に付け、以降は大相撲・プロレス時代のようなネガティブな印象は影を潜めていくと同時に、ファンからの声援も送られる様になった。そして1998年まで現役を貫き、同年10月で格闘界から引退した。

また1994年には格闘技塾「北尾道場」(後の武輝道場、1999年に闘龍門JAPAN(現:DRAGON GATE)に吸収合併)を旗揚げ、岡村隆志(元DRAGON GATE社長、北尾引退後に武輝道場を引き継いだ。)、望月成晃(現役、DRAGON GATE所属)、河野圭一(チョコボールKOBE⇒チョコフレークK−ICHIの名で2001年まで活動)、多留嘉一(現:TARU、2004年退団後フリーを経てMAKAI所属。)を輩出している。




その後編集

2003年フリーの立場から代替わりした第7代立浪(元小結・旭豊勝照角界のマツケンの愛称で知られている)の立浪部屋のアドバイザーに就任。自身が現役時代に使用していた化粧回しを日本相撲協会に寄贈した。

後に雑誌社のインタビューで、「もう表舞台に出るつもりはない」「このまま風化されればいいという気持ちだけ」という思いを明かしている。


闘病生活と死編集

しかし、北尾が相撲界と接触を持ったのはそれっきりで、以降10数年立浪部屋とも没交渉だったという。北尾が和解直後から糖尿病を端に発する闘病生活に入ったためである。

若い時は3kgのステーキを平らげたのちに9品の中華料理を平らげたほどの大食らいが仇となり、糖尿病を患っていた。趣味の日曜大工で傷つけた足の傷が何カ月も戻らず化膿したり、ストーブの熱で足が焦げても気づかないほどだったという。

そして、傷ついた足をかばっていたもう片足も痛めてしまい、医師に診せた頃には「切断が必要だが、切断しても生きる保証はない」と通告されるほど進行していた。妻は横綱にまで上り詰めた北尾のプライドを慮って切断を拒否し、本人も同調したため自宅での闘病生活を始めることとなった。


妻は北尾のために勤務医を辞職して自分で歩くことも困難になった北尾介護を行うものの、巨体の北尾を支え続けたためにヘルニアを患って介護ができなくなったために娘の手伝いを必要とし、最終的には娘にも進学をあきらめさせるほど介護は困難を極めた。

自分のせいで崩壊状態に陥った家庭を見て気に病んだ北尾は何度も自殺を試みたという。


最期の2年間は、腎機能が衰えたため入院生活を送っていた。死を悟った北尾は妻に「骨にならないと帰れないから」と自身の変わり果てた姿を死後公開すること前提で撮影を依頼した。死の半年前からは視力も記憶も衰え、溺愛していた娘すら思い出せなくなっていた。


2019年2月10日午前7時30分、慢性腎不全のため死去。享年57(満55歳没)。


生前からの本人の希望で葬儀は家族葬として行われ、妻と娘だけが葬儀に参列した。


尚、娘との関係については、北尾が元気な頃は娘を旅行に連れて行ったり一緒にゲームをしたりしていたが、一方で自分に付き纏う「問題児」のイメージは気にしていた模様であり、自分が人前に現れて娘がからかわれるといけないと思って娘の入学式や卒業式には参列しなかった。北尾はまた、娘を女の子らしく育てようとリカちゃん人形を与えた一方で「顔にケガをしたら大変だから」と格闘技系の習い事はやらせなかった。


関連動画編集


関連タグ編集

大相撲 横綱 プロレス/プロレスラー 総合格闘技

輪島大士曙太郎:後に他の格闘技に転向した横綱経験者つながり。

貴乃花光司:ファーストネームと誕生日が同じ横綱経験者。土俵(リング)内外で度重なるトラブルに見舞われた点も共通する。但し横綱としての実績は天と地ほどの差がある。

デーモン閣下:プロレスのテーマソングを作曲。ちなみに本人も好角家として知られる。

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