藤波辰爾
ふじなみたつみ
藤波辰彌(旧表記及び本名は辰巳)は日本のプロレスラーである。
ファンサービスを大切にする「いい人」である一方で、優柔不断で師匠のアントニオ猪木に対してイエスマンな性格を揶揄して「おでん」「コンニャク」とも呼ばれている。
中学卒業後、地元の自動車整備工場に就職するがプロレスの世界に入る夢を諦めきれず、日本プロレスに入団。アントニオ猪木の付き人となって、1971年5月9日に同郷の北沢幹之戦でデビュー。
そして、猪木が日プロ追放の際に追従する形で退団、わずか18歳で新日本プロレス(以下新日と略す)の旗揚げメンバーとなる。
海外修行から帰国後空前の「ドラゴンブーム」を巻き起こし、ジュニアヘビー級と言うジャンルを確立させた。
その後ヘビー級に転向し、ここで永遠のライバル:長州力の「かませ犬」発言を受け、「名勝負数え歌」を繰り広げる。
1999年~2004年まで新日の社長を務め、2006年退団。
現在は『ドラディション』代表を務める。
マット界随一のお城マニアとしても有名。
- 必殺技:ドラゴンスープレックスを修行時代のWWWF(現WWE)のマジソンスクエア・ガーデン興行で初公開。しかし、あまりにも威力がありすぎたために試合後の控え室では冷たい目で見られたとか。
- 大阪でチャボ・ゲレロ(シニアの方)との試合で技を避けられ、流血試合となるも辛くも勝利、試合後に入院先の病院にお見舞いの果物カゴが届く。これが奥様との出会いのきっかけとなった。
- 1985年、熊本での試合で対戦相手の「スーパーストロングマシン」に対し「お前平田だろ!」とマイクアピールで正体をバラした。しかもテレビ中継の試合だった(この事について藤波はマシンの正体が平田だと知らず、マイクを渡されたので適当に言っただけだったのがまさか本人だったと思っていなかったの事)。ちなみに言われたマシン本人は、近年インタビューでその時の心情を「思わず後ろ受け身とりそうになった」と語っている
- 同年、自らのテーマ曲でもある「マッチョドラゴン」というシングルをリリース。その歌唱力は常人の理解をはるかに超えている。気になる人は動画サイトで検索して下さい。なお、面倒な人向けに動画の一例を下に用意しました。
- よく引退宣言を撤回したり、引退カウントダウンの回数がカウントアップしたりした。
- 1988年、当時の新日の体制に疑問を抱き「飛龍革命」を起こす。
- この際に「モイスチャーミルク配合?」の迷言や「テンパって前髪を切る」と言う不可解な行為をやらかした。髪を切った際はさすがの猪木もあわてて止めに入ったほど。
- 2001年には長州と橋本の試合を「ドラゴンストップ」で中断し、「我々は殺し合いをしてるんじゃないんだ!解って下さい!」という迷言を残す。
- 2011年6月には「AKB共和国」の1コーナーに出演。そのタイトルが「もうひとつのもしドラ~もしもAKB研究生の中にドラゴン藤波がいたら~」である。
藤波さんの編み出した技の数々
相手を羽交い締め(フルネルソン)にしてそのまま後ろへ反り投げる。
アントニオ猪木から初めてフォールを奪った技でもある。
現在は腰を痛めてるので滅多に使用しない。
相手の片足を持ち、自分が倒れ込みながら膝の靱帯をねじ切る。
ドラゴン・ロケット
トペ・スイシーダと同型の技で、リング内からロープの間をくぐり抜け、場外の相手へ体当たりする。
前述のチャボ・ゲレロ戦ではこれを避けられ、鉄柵に激突して流血した。
尻餅状態の相手の頸動脈を背後から脇で締め上げ、もう片方の腕で相手の腕の動きを封じる。
(一説によると頸動脈を締められてギブアップするのではなく、脇の臭いに耐えられずギブアップするらしい)
ドラゴン・リングイン
主にタッグマッチでパートナーからタッチした際に、コーナーに登りトップロープからノープランで飛び降りてリングインする。
直後にそのまま相手の攻撃を食らって形勢不利になったりするのはお約束。
なお、アメリカでもドラゴン・リングインして直後に攻撃を食らって形勢不利になったレスラーがいる。
掟破りの逆○○
相手の得意技を使用した際にパクリと言われない表現。
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2017年の11月に書いた短編小説です。恋愛とか未だに全然わからないので、あんまり恋愛は書かないのですが、なぜか書いていました。途中の藤波辰爾は本人の映像ではなくユリオカ超特Qのモノマネで知りました。3,336文字pixiv小説作品