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日本プロレス

にほんぷろれす

日本プロレスはかつてあったプロレス団体。
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1953年、大相撲関脇からプロレスラーに転向した力道山が後見者を得て設立した「日本プロレス協会」が母体となる。
団体として興行会社としての日本プロレス興業株式会社、業界組織としての日本プロレス協会、ライセンス発行や選手権試合の管理、認定を行う日本プロレスコミッションからなっていた。

相撲を廃業後、力道山はアメリカへ渡り、帰国後プロレス興行を始める。1954年2月に木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した試合はテレビ(日本テレビばかりか、何とNHKも!!)を通じて全国に中継され話題を呼ぶ。
当時、木村政彦の「国際プロレス団」や山口利夫の「全日本プロレス協会」などが存在したが、この2名を直接対決で下した力道山が著名となると、競合団体は相次いで消滅し唯一の団体となった(因みにいずれも後の国際プロレス全日本プロレスとは無関係)。

しかし力道山死去の後、豊登が日本プロレスの2代目社長となるが生来のギャンブル好きから来る数々の横領が発覚、1965年末に社長を退任、日本プロレスからも退社。
豊登は1966年にアントニオ猪木を引き抜いて10月に蔵前国技館で東京プロレス旗揚げ戦を挙行。
ところが日本プロレスによる妨害工作、テレビ中継が無いゆえの興行不振に加え、そこでも公金を私的に流用するなど経営が立ち行かず3か月で崩壊し、猪木、永源勝(後の永源遙)、高崎山三吉(魁勝司こと北沢幹之)、柴田勝久らは日本プロレスに復帰。
同時期に経営路線の対立が元で1966年10月に取締役営業部長だった元プロレスラーの吉原功が国際プロレスを設立する。こちらはラッシャー木村、寺西勇、仙台強(大剛鉄之助)、マンモス鈴木、大磯武、竹下民夫ら復帰が叶わなかった選手が移籍、豊登ものちに合流する。

昭和40年代にはジャイアント馬場アントニオ猪木の『BI砲』で人気を博し、1969年より、日本テレビにくわえて新たにNETが参入、2局放送体制となった。
人気No.1馬場の試合がNETの試合を中継できない為人気No.2の猪木・大木金太郎らを中心に据え、猪木に人気が出てきたため派閥争いが起きる。

1971年に、一部幹部に横領などの疑いがもたれ始めるとこれを憂えた馬場・猪木ら選手は、幹部に経営改善要求を突きつける。しかしそれが元で会社乗っ取りを図ったとして猪木が除名されてしまう。
その後猪木は新日本プロレスを1972年3月に創立。
1972年5月には日本テレビが実況を打ち切った。これは猪木がいなくなった穴を埋めるためにNETが馬場の試合の中継を(半ば勝手に)やらかしてしまったことに日本テレビがブチ切れてしまったからだった。馬場は日本テレビを後ろ盾に8月に全日本プロレスを設立した。これに伴い日本テレビは『全日本プロレスリング中継』としてプロレス実況中継を再開している。
興行の二枚看板を失った日本プロレスは一気に弱体化することになり、興業で国際プロレスに負ける事になる。

1973年3月、3月30日でNETの実況を終了、4月6日から新日本プロレスの中継(『ワールドプロレスリング』へ再改題)を開始すると発表すると放映権料を完全に失った。それに加え、主力選手の離脱で観客動員も激減したことによる入場料の減収により会社経営も立ち行かなくなり、NETの実況中継終了と同時に興行活動を断念する意向を示した。しかし選手会主催興行として強行するも振るわず、4月20日の『アイアンクロー・シリーズ』最終戦・群馬県吉井町体育館大会をもって興行活動を停止した。

所属選手

力道山 東富士 駿河海 遠藤幸吉 芳の里 吉村道明 大同山又道 大坪清隆(大坪飛車角)
金子武雄 土佐の花(竹村正明) 玉の川 羅生門綱五郎 吉田川 宮島富男 藤田山
渡辺貞三 比嘉敏一 大山博 長谷川丹治 平野惣一(平野岩吉) 本間和夫
木戸時夫(木戸修の実兄) 輝昇 金栄珠 萬奇煥 大里巌
飯田敏光(後にプロ野球「大洋(現:横浜DeNAベイスターズ)」に入団)
斎藤昌典(後のマサ斎藤) 緑岩(練習生)

国際プロレス旗揚げメンバー

吉原功(引退し社長として旗揚げ) ヒロ・マツダ マティ鈴木
杉山恒治(後のサンダー杉山) 草津正武(草津清正、後の初代グレート草津
マンモス鈴木(レフェリーに転向) 阿部修(レフェリーに転向)
竹下民夫(レフェリー・リングアナウンサー兼任)

後に国際プロレスへ移籍

豊登 ミスター珍(出口一) 木村政雄(後のラッシャー木村
田中忠治(田中政克) 長沢秀幸(長沢日一)

新日本プロレス旗揚げメンバー

アントニオ猪木(猪木完至) ユセフ・トルコ(レフェリーに転向)
山本小鉄(山本勝) 柴田勝久(柴田勝頼の実父)
北沢幹之(後の魁勝司、デビュー時は高崎山猿吉、ほかに新海弘勝など。後の第1次UWFリングスドラディションでレフェリー)
木戸修
藤波辰巳(現:藤波辰爾

1973年に新日本プロレスへ移籍

坂口征二 小澤正志(後のキラー・カーン) 木村聖裔(後の木村健悟
大城勤(後の大城大五郎) 田中米太郎(桂浜)(レフェリーに転向)

全日本プロレス旗揚げメンバー

ジャイアント馬場 樋口寛治(後のジョー樋口、レフェリーに転向)
駒厚秀(駒角太郎、後のマシオ駒) 轡田友継(後のサムソン・クツワダ)
藤井誠之  大熊元司(大熊熊五郎)
佐藤昭雄 百田光雄(力道山の息子)

最終所属選手

大木金太郎(金一)
高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ
上田馬之助(上田裕司、グレート・イトー)
グレート小鹿(小鹿信也、小鹿雷三、現・大日本プロレス社長)
松岡巌鉄(正剛山、ミスター松岡)
ミツ・ヒライ(シンガポール遠征時は「フジ・シンタロー」を名乗る。平井伸和の実父)
桜田一男(後のケンドー・ナガサキ
羽田光男(後のロッキー羽田
伊藤正男
※日本テレビとの3年契約後、全日本プロレスに派遣の形で上がるが大木、上田、松岡は契約中に退団、残り6人は正式入団。

崩壊時海外武者修行を行っていた選手

ミスター・ヒト(安達勝治)
林牛之助(林幸一、後のミスター林)※帰国後、全日本プロレスに入団。
星野勘太郎(星野赳夫)※帰国後、新日本プロレスに入団。
永源遙(永源勝)※帰国後、新日⇒ジャパンプロレス⇒全日⇒プロレスリング・ノアに在籍。
戸口正徳(後のタイガー戸口、キム・ドク)

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