プロフィール
来歴
同志社大学に入学し柔道部に所属していたが1年で退部、他大学の柔道部にコーチ兼学部の特待生としてしばらく所属した後に、2年の進級時に明治大学農学部農業経済学科に編入学し、レスリング部に所属。
入部10日後に開催されたローマオリンピック最終予選でいきなり優勝を飾るが、経験不足を理由に出場できず。
ヘビー級の選手として全日本学生、全日本選手権を制覇し、1964年の東京オリンピックに出場。
翌年レスリングのエリートとして日本プロレスに入団、同じくレスリング出身で東京オリンピックに出場した斎藤昌典(後のマサ斎藤)、ラグビー出身の草津正武(後のグレート草津)と共に「三羽烏」と称された。
1966年3月4日に本間和夫戦でプロレスデビューを果たしたが、同年の夏に新団体の国際プロレス旗揚げに参加するため、グレート草津と共に移籍。
その後、海外武者修行のために渡米し、「トーキョー・ジョー」のリングネームでヒールとして北米を転戦。
帰国後の1968年2月14日、豊登のパートナーとなってファビュラス・カンガルーズ(アル・コステロ&ドン・ケント)を破り、TWWA世界タッグ王座を獲得。
1970年2月3日には草津とのコンビでモンスター・ロシモフ&マイケル・ネイダーからIWA世界タッグ王座を奪取。(4回防衛)
1970年5月19日、日本人として初めて、リングアウト勝ちながらビル・ロビンソンを破り、第2代IWA世界ヘビー級王者に就く。以降国際プロレスの看板選手として活躍。
1971年9月23日にはラッシャー木村を新パートナーにIWA世界タッグ王座を再度奪取。(7度防衛)
1972年9月に全日本プロレスに円満移籍。しかし、扱いを巡ってジャイアント馬場社長と揉めて1976年3月末付で離脱、フリー宣言。
1976年と1977年に古巣の国際に特別参戦。1978年にはヒロ・マツダを総帥とする「狼軍団」の一員として新日本プロレスにも参戦。
フリー宣言後日本テレビ系『おはよう!こどもショー』に出演するなどタレント活動の後、名古屋で「サンダー杉山コーポレーション」(現在の「サンダー杉山ベンディングサービス」)を創立、飲食業や自動販売機設置などの経営者としても成功。
しかし現役時代から患っていた持病の糖尿病が悪化、肝臓病や胃癌も併発し右手首と両足の切断もしたが病室からメールで業務指示していた。
2002年11月22日、心不全により62歳で死去。
得意技は「雷電ドロップ」、「ジャーマン・スープレックス・ホールド」など
また130kgの肥型の体型でありながらドロップキックやフライング・ヘッドシザース(ヘッドシザーズ・ホイップ)なども使用。
備考
学研が1977年に刊行したひみつシリーズの1冊『NHKハテナゲーム 魔法実験のひみつ』(画・伊藤章夫)の作中、コンビーフの缶を敷き詰めたアーチの強度実験のエピソードに実名で登場する。杉山がコンビーフ缶の山を発見して大喜びでモリモリ食べる場面が印象的だったため、2020年に川商フーズ(旧野崎商事)が枕缶の製造を終了しアルミック缶に切り替えると発表した時にサンダー杉山のことを思い出した人も多かった。