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アンドレ・ザ・ジャイアント

あんどれざじゃいあんと

アンドレ・ザ・ジャイアント(1946年5月19日~1993年1月27日)とは「世界8番目の不思議」「人間山脈」「一人民族大移動」の異名を持つ、元外国人プロレスラー。
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概要と呼ぶには巨大すぎる!編集

本名:アンドレ・ルネ・ルシモフorロシモフ(André René Roussimoff)。フランス・グルノーブル出身(但し、フランス北中部のクロミエという町が出生地)。全盛期は身長が223cm、体重が236kgという文字通り超巨漢で鳴らした。

圧倒的な体格もさる事ながら、それに奢らない絶妙なプロレステクニックと、高い身体能力も持ち合わせていた。


ちなみに「東洋の巨人」と言われた、ジャイアント馬場より14cmもデカイ


(因みに出生時の重さは5897gとその巨人症の前兆が窺え、そこから10代までは平均的な身長であったものの10代を過ぎて間も無く、急激に成長。12歳の時には190㎝、109㎏を記録、15歳の時には身長は2mを越えたという。また『アンドレの家系は巨人の家系であり家族は全員2m以上の身長がある』という逸話もあるが、これは明らかな虚説であり、実際は隔世遺伝と推測されるホルモン異常が原因であった)


生き様と呼んだら人口の辻褄が合わない!編集

第二次世界大戦が終結して間もない1946年5月19日にブルガリア人の父ボリス・ルシモフとポーランド人の母マリアンヌ・ルシモフの三男として生まれた(兄妹は5人いる)。父親と母親は共に東欧からフランスに移住してきたスラブ系移民だったのである(前述の出生地クロミエもまた、スラブ系の文化遺産が多く残っている事でも知られている)。


元々はフランスでもいい所のお坊ちゃん(実家は広大な農場を所持していた農家であった)で、少年時代からサッカー、ボクシング、レスリング、クリケット等のスポーツに打ち込んでいた。

学業でも優等生で数学に興味を持っていたが、14歳で地元グルノーブルの中学校を卒業(日本とは異なり、フランスでは11歳から14歳までの4年間が中学校での就学年数《ひいては義務教育も14歳まで》である)した後、「農家出身の自分には高等教育は必要ではない」と思った為か高校へは進学せず、数年間実家の農場で働いたり、木工の見習いに励んだり、ベーラー(干し草や藁を梱包する為の農業機械)専用エンジンの製造工場で働いていたという。その後、単身でパリに移住してからは家具運送会社に勤務している所を「マット界の魔術師(日本での異名)」ことエドワード・カーペンティアにスカウトされ、プロレスの世界に入る。


因みに漫画『プロレススーパースター列伝』等にある、プロレスの世界に入る前はとして斧を振るって仕事に勤しんでいた所をカーペンティアに『発見』され、そのままスカウトされたという話は有名だが、フィクションである。


18歳の時にパリでデビューした、南アフリカでデビュー戦を行ったなどフランス時代の経歴についてはよく判っていない。デビュー当時から来日直前までは「アンドレ・ザ・ブッチャー・ロシモフ」や「ジェアン・フェレ(『巨人フェレ《Géant Ferré/Giant Ferré》』という意味であり、後述の『ジャン・フェレ《Jean Ferré》』とは異なる)」、「モンスター・エッフェルタワー」と、幾つかの名義で活動していたが、後述の国際プロレスに来日した際には国際プロレスの社長であり、元プロレスラーの吉原功から「モンスター・ロシモフ」と命名され、この名前で国際プロレスのリングに上がっていた。


1970年にカナダモントリオールに移住し、現地ではジャン・フェレ(英語読みで『ジーン・フェレ』と呼ばれた事もある)の名で活躍した。

この頃、国際プロレスに初来日を果たす(参戦)。また、「帝王」の異名を持ち、AWAの総帥であるバーン・ガニアと出会い、北米進出の切っ掛けを掴んだ他、そのガニアから更なる多くのレスリングテクニックを学び、後の「圧倒的な体格もさる事ながら、アームロック等のレスリングテクニックでも観客を惹きつける事が出来る巨人レスラー」としての基盤を固めてゆく事になる。


1973年に、ブッキング権がガニアからWWWF(現WWE)のプロモーター、ビンス・マクマホン・シニアに渡り、契約。同時にアンドレ・ザ・ジャイアントと改名する。

しかしWWWFとは専属契約をした訳ではなく、マクマホン・シニアのブッキングでNWA・AWAはもとより、世界中の様々な団体を定期的かつ短期参戦でサーキットして回る様になる(所謂「レンタル移籍」)。これは「いつでも会える怪物」は一般層のファンにはすぐに飽きられる、というマーケティング上の都合からの判断である。そのお陰か、この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレは全米の有名選手達と闘った。また各プロレス協会から一定の契約料を得た為、1974年のギネスブックでは「年俸40万ドルのプロレスラー」としてアンドレは掲載された。


更にその同年、WWWFと提携していた新日本プロレスに本格参戦。新日本プロレス創設者であり、当時社長であったアントニオ猪木との抗争も始まった。


猪木の保持していたNWFヘビー級王座には、1974年12月15日にブラジル・サンパウロのコリンチャンス・スタジアム、1977年6月1日に名古屋の愛知県体育館にて、2度にわたって挑戦。猪木が坂口征二とのコンビで戴冠していたNWA北米タッグ王座にも、ロベルト・ソト、トニー・チャールズ、ザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバート)など、パートナーを代えて3回挑戦している。


また新日本参戦して間もない頃は、それと同時に愛着のあった国際プロレスにも特別参加した事がある(またこの時期に、ラッシャー木村が当時保持していたIWA世界ヘビー級王座決定戦《1979年7月》に挑戦している)。また、新日参戦時期には伝説のスタン・ハンセンとの「田園コロシアムの一騎打ち」を抜きにしては語れない。


新日本プロレス参戦時のアンドレは、前述のジャイアント馬場をも凌ぐ巨体と圧倒的な強さから、専らヒールの扱いで、本人もそれを受け入れ、かつ意識してファンを遠ざけていたが、一方で一種の“愛嬌”も持ち合わせており、登場時に花道以外での通路から出て来てファンを驚かせたり、試合中もしくは試合後に観客席に着席したり、後に“世界最大のマスクマン”、ジャイアント・マシーンをノリノリで演じている。


1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となった。またアメリカではアンドレは絶対的なベビーフェイスの存在で、第1回レッスルマニアではヒールレスラーの主要メンバーであったビッグ・ジョン・スタッド(身長が204㎝もある、アンドレと同じく巨漢レスラーとして活躍した人物)と1万5000ドル争奪ボディスラム・マッチを行う等をして活躍したが、1987年にヒールターンして長く抗争を続けていたボビー・ヒーナン率いる「ヒーナン・ファミリー」に加わり、第3回レッスルマニアでは嘗ての盟友だったハルク・ホーガンと初めてWWF(WWE)世界ヘビー級王座を賭け、激突した。


この時のレッスルマニアでは9万3173人もの観客動員数を記録(後に2010年にカウボーイズ・スタジアムにて行われたNBAオールスターによる10万8713人という記録に更新されるまで、世界のインドア・スポーツのイベントにおける過去最高の観客動員数であった)。普段は滅多に自慢等をしないアンドレはこの観客動員数を関係者から聞いた時、「ローリング・ストーンズのコンサートを超えたな。」と口にしたという。


しかし、この頃から急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われて行った。加えてハルク・ホーガンの後継者として期待されているアルティメット・ウォリアーの売り出しとしてリングに上がっては連敗を重ねたり、「蛇嫌い」という設定が加えられてジェイク・”ザ・スネーク”ロバーツとの抗争を繰り広げる等が主となった。


そして体調不良のため1990年にWWFを退団するが、その直前にWWF、新日本、全日本の共同開催で行われた「日米レスリングサミット」でジャイアント馬場と出会い、タッグを組んでWWF世界タッグ王座に返り咲いていたザ・デモリッションと対戦して勝利を挙げる(因みに試合後、アンドレは『馬場さんとタッグを組むのは楽しい』とコメントしている)。

また、この日米レスリングサミットを機にアンドレは全日本プロレスに移籍。その後、更に増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少したが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍。その全日本では前述の田園コロシアムでの一戦等を交えたスタン・ハンセンと、国際プロレス以来の親友やライバルだったマイティ井上ラッシャー木村との再会を果たし、共に喜びを分かち合った。


1990年と1991年に世界最強タッグ決定リーグ戦には馬場と共に出場し、1990年はトップを走っていたもののドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクの兄弟コンビ「ザ・ファンクス」との一戦の際に馬場が場外に転落した際、左大腿骨を亀裂骨折した為にリタイヤ。結果は同率3位に終わったものの、1991年には常時出場して準優勝を果たしている。しかしコンディションが更に悪化した為、1992年からは馬場やラッシャー木村のファミリー軍団に加わり、悪役商会との「明るく楽しいプロレス」が中心となった。

しかし、10月21日に日本武道館で行われた全日本プロレス創立20周年記念試合(馬場&ハンセン&ドリー・ファンク・ジュニアvsジャンボ鶴田&アンドレ&テリー・ゴディ戦)では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。最早トップロープを跨ぐ事が出来なくなる程、アンドレの動きは全盛期とは程遠かったものの、ハンセンのウエスタン・ラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせる等、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。


全日本、ひいては日本での最後の試合は1992年12月4日日本武道館、馬場・アンドレ・ラッシャー木村のトリオで六人タッグマッチ(vs大熊元司永源遙渕正信)で、アンドレが大熊をロープを持ち支えてのヒップドロップでフォールした。奇しくもこの試合は、フォールされた大熊の最後の試合でもあった


父親の葬儀へ出席するために帰国していた翌1993年1月27日、急性心不全(鬱血性心不全)の為にパリのホテルの自室で死去(享年46歳)。長年に渡る過度の飲酒と、後年に殆どトレーニングしなかった事が原因と言われている(。無論、巨体ゆえの心臓への長年の負担も、命を縮める一因となったのは間違いない。

一説には父の死去を機に心を入れ替えてトレーニングと節制を行ったが、急に運動と食事の習慣を変えたせいで余計心臓に負担がかかったという話もある。


遺体はアンドレ自身の遺言に従い、火葬された。埋葬が一般的な欧米人としては珍しい例であった。弁護士に渡した遺書には「死後48時間以内の火葬」が指示されていたが、パリにはアンドレの巨体を荼毘に付せる設備がなく、やむなくそのままアメリカに移送された。また重さ7.1kgにもなるアンドレの遺灰は、彼が晩年プライベートで多くの動物達と過ごす為に買い取ったノースカロライナ州エラーブにある広大な牧場に散布された。


後に生前の功績を称え、1993年6月3日にWWE殿堂入りの第一号レスラーとなった。以後、数多の偉大なプロレスラーがWWEの殿堂に入るが、そのWWE殿堂設立の切っ掛けを作ったのが他ならぬアンドレであり、いかに彼が偉大なプロレスラーであったのかを窺い知る事が出来る。


ファイナルファイトシリーズの敵キャラのアンドレ(後のヒューゴー)のモデルでもあり、その他多くの娯楽作品で登場人物のモデルとなった。


世界8番目の得意技編集

ジャイアント・プレス編集

一般的にいうところのボディプレスなのだが、アンドレの巨体が全体重をかけて相手を押し潰す様は圧巻の一言。ここぞという時の決め技として使用され、実質アンドレ最大のフィニッシュ・ホールドといえる。ジャンプして見舞う時と、両膝を付いて相手に倒れこむ時の2通りがある。但し自身への負担が大きく、1982年頃から使う頻度が大きく減った。


ヒップドロップ編集

ヒップドロップといえば繋ぎ技として扱われる事が多いが、プロレス界においても突出した巨躯を誇ったアンドレが放つそれは、充分にフィニッシュ・ホールドとして通用する破壊力を持っていた。この体勢からフォールを狙う場合も多い。相手がタフかどうかで飛ぶ高さを決めており、「高く飛んだ相手はタフさを認めたものだ」とアンドレは語っている。


ヒッププッシュ編集

相手をコーナーに追い詰めた後、相手やコーナーに背中を向ける形で覆い被さり、勢いを付けて相手に尻を突き当てる。コーナーとアンドレの巨体に挟まれる為、相手は逃げ場がなく、また受けるダメージも大きい。タッグマッチの際は、相手を2〜3人まとめてコーナーに追い詰め、この技を繰り出す事もある。またこの技を繰り出した後、相手をコーナーに押し付けたまま放屁して更に相手を苦しめる事もあったという。


ネックハンギングツリー編集

相手の首を両手で捕らえ、その体勢から腕力で持ち上げる事で首を絞め上げる。その長身を生かしたリフトは驚異的な高さに達し、抜群の説得力を持つ技であった。


ツームストーン・パイルドライバー編集

来日前からの得意技であり、初期のフィニッシュ・ホールド。1972年に「密林王」の異名を持つターザン・タイラーとの試合で使用した際、タイラーの首の骨を折ってしまってからは封印している。しかし新日本プロレス参戦期ではドリル・ア・ホール・パイルドライバーは、エキサイトした余りアントニオ猪木キラー・カーンに見舞った事がある。


ジャイアント・ボンバー編集

ラリアット。ジャイアント・マシーン変身時、フィニッシュとして繰り出していた。坂口征二からフォールを奪い、若手のレスラーを失神させた事もある。また、田園コロシアムでの一戦では、マネージャーのアーノルド・スコーランから手渡されたサポーターの装着を許可しないミスター高橋に対して怒り、彼をロープに降った際にこの技を繰り出し、文字通りの病院送りにして反則負けになった。


また技ではないが、トップロープとセカンドロープの間に両腕を絡める独自のムーブを持っている。明らかにアンドレ自身が故意に腕を絡めているのだが「アンドレの巨体によってロープがたわむハプニングで腕が絡まってしまった」と見るのが礼儀。

現在では、生前のアンドレに匹敵する体格を持つWWEの大型選手グレート・カリビッグ・ショーも、試合でこのロープに絡まるムーブを度々披露している。ちなみに元新日本プロレスのレフェリーであったミスター高橋は試しにそれを実践してみた事があるが、ロープが固く腕に巻きついて腕が折れそうになり、とてもではないが出来なかったという。このムーブはアンドレ並の巨体を持った者のみに可能なものだった。


人間エピソード山脈編集

アンドレはその人間離れした巨体と、虚実入り乱れることを良しとするプロレス文化ゆえに数多くの伝説に彩られている。以下ではそのごく一部を紹介する。


  • その巨体ゆえに投げ技をかけられる事はほとんど無く、アンドレをボディスラムで投げる事はレスラーのステイタスであった。

アンドレ自身は「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」とハンセンへ語っていたといい、ハーリー・レイスは投げる時にアンドレが自分に「早くしろ」と囁いたと坂口憲二に語っていた。


  • 巨漢ゆえに指も太く、ダイヤルが当たり前だった時代の電話機では指がダイヤルに入らなかった為、鉛筆等を使って回していたという。

  • アンドレにとっては排泄はかなり困難であった模様で、飛行機内ではトイレのサイズがかなり小さいが為、座席の辺りに掃除用のバケツを置いてそこで用を足したり、また前述のタイガー服部の証言によると、ホテル(特に日本のホテルのトイレは大抵はコンパクトな構造であるが為に使えなかったという)では浴槽の縁に掴まって用を足していたという。

  • 前述のアンドレの食事量によれば、全盛期の頃でも大体成人男性の3~4人前程とミスター高橋は著書「『犬猿』ドリームマッチ実現! 『禁断の対談』 ミスター高橋vs永島勝司」で述べている。ただ、その一方で酒が入ると焼肉屋の肉を全て平らげるなど、超人的な大食漢ぶりを見せたこともあった。

  • 現役時代からカーリーヘアのを着用し、リングに上がっていた。これはより一層巨大感を表現させるために着用していたという。ただし後年はカーリーヘアーの鬘を外し、地毛のパーマヘアーで闘っている。

  • 前述の通り「ジャイアント・マシーン」としてマシーン軍団に加入していた頃、タッグではスーパー・マシーン(マスクド・スーパースター)と共に組む事が多かった。因みにジャイアント・マシーンの正体は公然の秘密となっている(無論バレバレである)が、相方のスーパー・マシーンについてはWWFオフィシャル発表では「北海道(札幌)生まれの日本人」という事にされ、怪しげな日本語を話していた(加えてジャイアント・マシーンとスーパー・マシーンは共に最終学歴が東京大学卒業と言う事になっている)。

  • WWFに参戦したキラー・カーンとはアメリカでの試合でアンドレの負傷というトラブルを互いの気転で台無しにするどころか逆に後の構想として盛り上げることに成功して以来生涯に渡って親友同士の付き合いでもあった。

  • 14歳で親元を離れて5年後、19歳になったアンドレは一度グルノーブルの実家に帰郷したものの、先端巨大症の為に2.1メートルにまで成長し、昔のアンドレとは似ても似つかない状態になっていた為に両親は実の息子アンドレが分からなかったという。因みに両親は息子が「ジェアン・フェレ」の名前で活躍していた時、テレビではそれが息子のアンドレである事を知らずに視聴していたとの事。

前田日明とのシュートマッチ編集

1986年4月29日に三重県津市の津市体育館で行われた試合において、序盤からアンドレは全くプロレスに付き合わず、前田がタックルに来ると巨体を被せて押し潰そうとした。その様子に異変を感じた前田は試合途中から距離をとっての打撃に終始。

次第に観客からブーイングが起こり始め、リングサイドには試合に関係のない猪木が現れる。リング中央から動かないアンドレに対し、前田は膝頭に危険な蹴りを連発。最終的にアンドレはリングに寝転がったまま起き上がらなくなり、戦意喪失とみなされ試合終了。困惑した前田がセコンドに対し事情の説明を求めるという不可解な結末に終わった。

前述の前田の自著には、アンドレはマット上に寝転んだ後に制するかのように両手を広げながら「It is not my business!!(俺が仕組んだ事じゃない!!)」と言ったという記述がある。


経緯については諸説ある中、前田は「新日サイドによる組織的な『潰し』」という説を唱えており、対して高橋は「UWFスタイル、特にキック攻撃を嫌悪していたアンドレが個人的感情から起こした行動」としている。アンドレも晩年、この試合について「前田はキックが好きだと聞いていた。だから好きなだけ蹴らせてやっただけさ」という旨の発言を残しており、何らかの思惑があった事を示唆している。

なお、この試合の様子はテレビ収録大会にもかかわらず、後日、全国ネットで放映された録画中継で、この試合のみが何の説明さえもなく放送されなかったことから『内容が危険であるという理由で放送されなかった』のではないかとファンの間で噂されていた。しかし、テレビ朝日の関係者によれば当時のスタッフから「試合が成立しておらず、つまらない」という声があり、放映するコンテンツとして品質不足と判断された為だった。この試合はお蔵入りの状態が続き、一部のプロレスマニアによる裏ビデオの流出物が出回るのみであったが、近年になってDVD化されるなど漸く“封印”が解かれた。

その一方で、この試合の翌日に発行された東京スポーツは、試合の一部始終を詳報。1面トップかつ写真入りで「大巨人、ナゾの試合拒否」等の見出しを付け、この試合が如何に「異常事態」なのかを捉えた報道として大きく扱った。


  • この試合以降、アンドレと前田は顔を合わさなかったが、それから1ヶ月後の5月30日に広島県立体育館での大会で前田とアンドレはセミファイナル前のタッグマッチで再び顔を合わせることになった。前田とアンドレとの絡みを期待しているファンが非常に多く、会場内もかなり緊張が走っていたというが、終始前田がスヌーカと、対するアンドレも藤原と絡むといったすれ違いの試合内容となり消化不良で終わった。

  • 因みにシュートマッチに自信のあったディック・マードックは前田のファイトスタイルに疑問を感じた模様で、新日本プロレスに再び参戦した前田に対して、「お前、プロレスがやりたいのか喧嘩がやりたいのか、はっきりしろ」と言った事もあったという。

山本小鉄も、前田とアンドレのシュートマッチについて「もし新日本が本気で前田を潰そうとしていたらアンドレではなくマードックを送り込んでますよ(仮にアンドレのセメントが新日本側の差し金であった場合、裏返せば『新日本側はアンドレが前田を懲らしめる程度に戦う』のを望んでいたという解釈になる)」と語っていたという。


身長について編集

公称身長には異論もあり、実際の身長はさらに高かったのではないか? とも囁かれている。

新日本プロレスレフェリーで、外国人レスラーの相談役でもあったミスター高橋氏の証言によれば、とある宿泊先のホテルで、アンドレの頭が天井の照明に当たって割ってしまった。状況を確認しに来たホテルのマネージャーは割れた照明を見上げて、「アレに当たったんですか? 2m40cmはありますよ」と、文字通りのびっくり仰天だったという。

アンドレは身体の成長が止まらない一種の病(巨人症)を患っていたと言われ、身長が公式記録より伸び続けていた可能性は十分にあり得る。


・・・ただし、プロレス界においては体格・大食い・怪力などを中心に正確性よりも娯楽性を重視するのが当たり前である。アンドレの身長はデビュー当時213cm、モンスター・ロシモフ時代は218cm、最終的に223㎝と上方修正されていった。アンドレとハルク・ホーガン(公称201cm)や名物インタビュアーのジーン・オーカーランド(175cm)など同じ映像に納まったことのある人物が、後代の巨人レスラービッグ・ショーとともに映る映像と比べると、双方同程度の身長で、むしろビッグ・ショーの方が高身長に見える映像もある。


晩年のアンドレは、猫背気味であったことを考えれば正確な晩年の身長を映像で知ることは難しい側面もある。しかし、ミスター高橋とアンドレの付き合いは遅くとも1986年まで、アメリカに一度戻った翌87年にホーガンと対峙する映像では、両人背筋が伸びた状態でアンドレの目鼻の高さにホーガンの頭が位置しているのに対し、1993年にホーガンと、同じく巨人レスラーとして活躍していたジャイアント・ゴンザレス(公称230~244cmとばらつきがあるが、最も信頼できる記録はバスケットボール時代の229cmか)が並んでいる映像ではホーガンの頭はゴンザレスの肩の高さにある。このことからも、実際のアンドレがゴンザレスに匹敵する長身であったとするミスター高橋の証言には信憑性が欠けているといわざるを得ない。


俳優としての活動編集

アメリカではその巨体から怪物的なキャラクターとして映画、ドラマに度々出演していた。


  • (キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2)「コナン」の主役を務めた、若い頃のアーノルド・シュワルツェネッガーウィルト・チェンバレン(216㎝の長身を誇った、NBAの伝説のバスケットボール選手)と共に会食した際、アーノルドが密かに全員分の会計を済ませたのを知るや、率先して支払う事を常に心掛けていたアンドレは感謝するどころか怒りだし、報復として188㎝の長身のアーノルドを軽々と持ち上げ、アーノルドの車の屋根に乗せたという。

  • (プリンセス・ブライド・ストーリー)映画のリハーサル中、アンドレのフランス語訛りの話し方を理解するのが難しいという事で、俳優のマンディ・パティンキンはそれに腹を立て、数多くの会話のシーンでアンドレの顔に本当に平手打ちを喰らわせたという。殺されるぞ、アンタ。

  • (プリンセス・ブライド・ストーリー)レスラー生活が後半に差し掛かっていた事もあり、映画撮影上、アンドレは丘の多くを歩き回る事が出来なかった為、四輪のバギーバイクを借り、運転で現場を移動していた。しかし、岩場に移動する際、アンドレの靴がバイクのペダルの間に挟まってしまい、アンドレの爪先の一部が粉砕骨折するというアクシデントに見舞われたのである。しかしそれでもアンドレは撮影の続行を望み、以後は保護靴を履いて残りの撮影を行ったという。

アンドレの酒豪伝説編集

後述する様にアンドレは酒豪として知られ、特にビールやワインの消費量については様々な伝説が残されている。


  • 1980年4月の札幌巡業ではサッポロビール園で看板(閉店)になるまで大ジョッキ89杯(56杯もしくは68杯という説もある)を空けたが、アンドレはそれに飽き足らず、そこから更にすすき野で朝まで飲み明かした、とミスター高橋は証言している。

  • ワインは白ワインが好みだったというが、結局は赤・白の別や銘柄に関係なく「水の様に飲み干してしまう」状態だったらしく、ハルク・ホーガンによれば「アンドレの誕生日の際に、移動バスにワイン1ダースをプレゼントとして用意したら、出発から2時間半で全部空けてしまった」という。また木村宏によれば、熟成されたものよりも、若いワインを好んでいた 。

  • この他、「タンパの空港で50分でビール108本を空けた」(ハルク・ホーガンによる証言)、「ペンシルベニア州リーディングのホテルのバーでビール327本を空け、流石のアンドレも気絶した」(ファビュラス・ムーラによる証言)等、消費量に関する伝説は枚挙に遑がない。ただこれらの伝説がどこまで本当なのかは不明。

  • 元々多かった酒量は晩年更に増え、ワインを手放せない状態だったと言われる。晩年は歩行すらままならない状態だった模様で、移動にバギーバイクを使用していた(歩行時は主に杖を使用が主であった。また全日本プロレスでの最後の試合である6人タッグマッチでも、若手レスラーの肩を借りて入場している場面が映し出されている)。

ひとり関連項目大移動編集

動画編集

入場テーマ曲編集


新日本プロレス時代に日本で制作されたオリジナルの入場テーマ曲『ジャイアント・プレス』は、没後も日本マットに登場した巨人プロレスラーや格闘家に用いられた。WWFにおいてもマシーン軍団の入場テーマ曲として、そして全日本プロレス参戦時でも使用していた。因みにヒール転向後のWWF時代は、1980年代後半で当時では珍しい「テーマ曲なし」で入場していた。



関連タグ編集

人間山脈 巨人 大巨人 巨魁 酒豪

ビッグ・ショー ケビン・ナッシュ アンダーテイカー(WWE) ケイン 諸星きらり

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