スティーブ・オースチン
すてぃーぶおーすちん
″Austin 3:16 says,I just whooped your ass!″
(オースチン伝第3章第16節曰く!テメェのケツをシバき倒してやるぜ!!)
1990年代から2000年頃にかけてのWWE全盛期を代表するスーパースター。
出生時の本名はスティーブ・ジェームズ・アンダーソンで、その後母親が再婚した際にスティーブ・ウィリアムスとなる。デビュー時は本名のスティーブ・ウィリアムス名義で活動していたが、同名の先輩レスラー(「殺人魚雷コンビ」の殺人医師の方)と被らないリングネームとしてテキサス州都のオースティンに因み、アメリカの人気テレビドラマシリーズ『600万ドルの男』の主人公の名前でもあったスティーブ・オースチンに変更。2007年に戸籍の上でもスティーブ・オースチン(Steve Austin)に改名した。(他にリングネームをそのまま本名になった人物としてはウォリアーことジェームズ・ブライアン・ヘルウィッグがいる)
それまでの爽やかというイメージのベビーフェイス(正統派)のイメージを根底から覆すどころか、根底から砕いたうえにツバを吐きかけるような「がらっぱちな正統派」と言う、今なおWWEで支持される正統派像を作り上げたと言っても良い選手。
ニックネームに「テキサスのガラガラ蛇(Texas Rattlesnake)」(独特のしゃがれた声が由来)、「最凶のタフ野郎(Toughest S.O.B.)」があり、日本のファン(主に2ちゃんねる系プオタ)からは親しみをこめて「禿」/「ストンコ」と呼ばれる。
WWE入団前まで
1964年12月18日アメリカ合衆国テキサス州オースティン生まれビクトリア育ち。
高校、大学時代は優秀なアメフトの選手として名を馳せ学業も優秀だったが、大学の研究論文の作成に嫌気がさし、卒業を間近で中退。
その後貨物会社に就職するが2年で退職。子供の頃からの憧れだったプロレスラーを目指す。
1989年に本名のスティーブ・ウィリアムズでプロデビュー。当時の主だった抗争相手は、自分をプロレスラーになる為に指導していたクリス・アダムス。
その当時の活躍が認められ、1991年にWCWマットにデビュー。ブライアン・ピルマンと共に「ハリウッド・ブロンズ」として活躍。(忘れられがちだが、当時のオースチンはフッサフサの金髪だった)
1992年に来日。新日本マットに参戦。9月に試合した蝶野正洋の首をパイルドライバーにて負傷させた…と今まで言われていたが、蝶野本人は2021年にYouTubeにアップした動画にて自身のダメージの蓄積が原因で負傷したとオースチンを庇う発言をしている。
その後タッグ解消後もシングルプレイヤーとして数々のタイトルを得るが、1995年の日本遠征時に上腕三頭筋を負傷してしまい、当時のオーナーから不可解な解雇を言い渡される。
WCWから解雇を言い渡された後、WCW時代にオースチンのマネージャーを務めていたポール・ヘイマンが創立したECWに誘われ、ECWマットへ参戦。
そこでWCW解雇を言い渡された鬱憤を晴らすかのように、最高王座へ瞬く間に上り詰めた。
なお、現在オースチンのトレードマークとなっているスキンヘッドはこの頃から。
WWE(当時WWF)時代
ECWでの活躍に目を付けたビンスに高く買われ、1995年WWF(現WWE)マットへ移籍。
リングマスターのリングネームでヒールとしてデビューするも、いまいちぱっとせず早々にギミックを変更。
そのギミックこそ現在のオースチンのイメージともなっている、「リング上で飲酒(ビールがぶ飲み)」「ミドルフィンガー」「誰かれ構わずぶちのめす乱暴者」″ストーンコールド″スティーブ・オースチンの誕生である。
単なるヒールの枠を飛び越えた傍若無人なキャラは、邪魔だてする者はベビーフェイスもヒールも関係なく叩きのめし、非常に鮮烈な設定として爆発的な人気を呼んだ。
スターダムにのり、このまま絶好調かと思われた矢先、試合中の負傷で長期離脱を余儀なくされる。その負傷は何の因果か、かつて蝶野を負傷させたパイルドライバーによる一撃であった。
そして1999年。オースチンの人気を決定づけるストーリーラインが組まれる。
最凶のオーナー、ビンス・マクマホンとの抗争開始である。
この一連の抗争劇は「権威等に太刀打ちできない実生活への反旗」を連想させ、視聴者から絶大な支持を得て物語はエスカレートしていった。
具体的な例で言うと、「オースチンが拳銃(おもちゃ)をビンスの頭に突きつけ、それにビビったビンスがリング上で大勢の観客が見ている中、失禁する」と言うところまで行った(流石にこれにはアメリカのPTAから抗議が入ったらしい。当たり前だ)。
その後はヒールと正統派を時々入れ替えて(でもやる事は大差ない)いたが、2009年4月4日WWE殿堂入りのスピーチで事実上の引退を表明した。
なお2007年12月に法的に本名をスティーブ・オースチンに改名している。
現在はタレントとしてWWEに所属しており、BrokenSkullSessionというWWEスーパースターを招くトーク番組の司会を務めている。
また、彼自身の名を冠したビールが発売されている。
決め台詞と独特のフィニッシュホールドこそWWEトップスターの証。オースチンもその例にもれず特徴的なモノを多数そろえている。
得意技・キメ技
ストーンコールド・スタナー
単純にスタナーとも。
オースチンがたる所以とも言えるフィニッシュホールド。
相手の下腹部にキック(ストンピング)を叩き込み、前のめりになった相手の頭を肩に担ぐように抱え込み、自らの体重を加え落下。
カウンターやグロッキーになった相手へのトドメなど、動作の短さを活かし多様な場面で使用。
またこれを喰らった相手のバンプ(受け身)もこの技の重要なファクターとなっている(なかでもザ・ロックのバンプは絶品との声が多い)。
なお、本当にやると掛けられた相手の頸椎に甚大なダメージを負わせることになるので、絶対にマネしない事(Don't try this at home)!!
コーナーでのストンピングコーナーでのストンピング
コーナー下に座り込んだ相手に、徐々にスピードを上げながらストンピングを連発し、最後は相手に中指を突き立てた後、一発見舞うのがお決まりである。実況では"穴掘り"と言われた。
リバース・パイルドライバー
いわゆる尻餅式のツームストーン・パイルドライバー。来日時、この技が首の負傷のトドメとなり、若手時代の[[蝶野正洋]は欠場に追い込まれた。
しかし数年後、今度は自らがオーエン・ハートとの試合中この技によって首を骨折した。
以降、WWFではパイルドライバー系の技は原則禁止(反則)となっている。
スタンガン
スタニング時代の得意技で、ニックネームの由来にもなった技。相手を正面から抱え上げ、倒れこんで喉をトップロープに打ち付ける。ストーンコールドとなってからも、繋ぎ技として使用していた。
キメ台詞
And that's the bottomline,'cause Stone Cold said so.(そこんトコ重要だぜ、なんせストーンコルドかく語りきってな!!)
ベビーフェイス時のマイクアピールのシメとして愛用。非常に分かりやすいキメ台詞なので、会場との合唱になる。
What?(はぁ?)
ヒールレスラーが何か言葉を発する時に遮って連呼する台詞。以降、ストーンコールド及びヒールのマイクパフォーマンスで一言発する毎に観客が「What?」と叫ぶのが通例になっていた。そのためWWEのマイクパフォーマンスは長文が少なく、短文の連続で構成される傾向にある。試合中にナックル、チョップ、ストンピングなどの打撃をヒットさせた時も観客がチャントしていた。
日本のファンにもこのセリフ(と言っていいのか?)は大いにウケ、WWEの日本遠征でロック様がマイクアピールをした際、あまりにも挟み込むタイミングが良過ぎた為に「今日はオースチンは来てないぞ」と苦笑交じりに語った。
彼は耳が悪く、電話中に何度も「What?」と繰り返すのをクリスチャンがからかったのが元ネタといわれる。
生まれ故郷のオースティンは国内でも比較的暖かい南西部にある都市だが、彼が生まれた日の気温は氷点下8度と一年に一度あるかないかの厳しい寒さの日であったとのこと。
日本への遠征興業でもアサヒスーパードライのがぶ飲みパフォーマンスを敢行したが、アメリカとは違い日本のビールはアルコール度数が高く(と言うか、規制の関係上アメリカで行うときはノンアルコールビールである事が殆ど)、最後の方は「素で酔っぱらっていた(オースチン本人談)」とか。実際、全試合終了後にファンサービスでリングに戻って来た際には千鳥足で、かなりのへべれけ状態&超ご機嫌であった。
「ストーンコールド」の由来は、家で『冷たいイメージ』ある新リングネームを考えてる時、当時の奥さんに「早く紅茶を飲まないと石のように冷めたくなる(Stone cold)」と言われたことに閃いてつけられた。ちなみに、この時の奥さんは師匠の元妻だったりする。
コスチュームの一部でもある金のチェーン・ネックレスは、タッグを結成した際にブライアン・ピルマンがショッピングモールで揃いのアイテムとして買ってきた品である(コスチュームはオースチンが手配したという)。ピルマンが若くして亡くなった後も、友情の証として現在も必ず身に付けている。
意外にもテレビゲームが好きで、ポッドキャスト番組にて同じくゲーマーのコーディ・ローデスと「ゼルダの伝説のベスト作品はどれか?」というテーマで語り合った事もある。(ストーンコールドはブレスオブザワイルド推しでコーディは時のオカリナ推し)
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