概要
ニックネームは「Dr. Death」で、日本では「殺人医師」と呼ばれた。
身長:188cm、体重:123kg(全盛時)。
いかつい体で動きもゴツゴツと固く、アメリカンフットボール仕込みのタックルとアマレスで培った投げ技を得意とした。
体が固いためバックドロップが脳天から叩き落すような危険な角度になってしまい、「デンジャラス・バックドロップ」と呼ばれた。
略歴
1960年
1978年
オクラホマ大学に入学。アメリカンフットボールとアマレスで才能を発揮し、レスリングでは全米大学選手権を4連覇。
1982年
USFLリーグのアメリカンフットボール・チーム、ニュージャージー・ゼネラルズ(オーナーはドナルド・トランプ)へ入団。オクラホマ大学アメリカンフットボール部の先輩のビル・ワットにスカウトされ、シーズンオフにプロレスをしていた。
1983年
プロレス専業となる。ビル・ワットの主宰するMSWAで活躍。
1986年
7月に初来日し、新日本プロレスへ参戦。次世代の外国人エースとして期待され、8月にはアントニオ猪木とのシングル・マッチが組まれたが、10月に2度目の対決となった際、開始早々スパインバスターで猪木を失神させてしまい、その後のフォローも拙かったため観客の失笑を買った。その後は降格されてしまう。
1989年
8月18日、全日本プロレスのジャイアント馬場と新日本プロレスの坂口征二が社長同士で会談した際、馬場が新日で干されているウィリアムスの全日移籍を持ちかけ、坂口が了承した。
1990年
2月、全日本プロレスに参戦。馬場はウィリアムスにプロレスについて指導し、巧者であるテリー・ゴディとタッグを組ませてフォローさせた(殺人魚雷コンビ)。殺人魚雷コンビは1990年、1991年と連続で世界最強タッグリーグを制覇した。
1993年
ゴディが内臓疾患により長期欠場し、シングルプレーヤーとしての活躍が始まる。小橋健太との三冠挑戦者決定戦でのデンジャラス・バックドロップ3連発がインパクトを与え、全日のトップ選手が受身が取りにくい危険技を使用し始めた。
1994年
7月に三沢光晴を破り第11代三冠ヘビー級チャンピオンとなった。10月に川田利明に敗れ王座から陥落。
1995年
鎮痛剤の大量所持で書類送検され、来日できなかった。
1996年
1年ぶりに全日に参戦したが衰えが指摘された。
2000年
プロレスリング・ノアの立ち上げによる選手の大量離脱後も全日に残った。
2003年
I.W.A.JAPANをホームリングとする。
2004年
3月に咽頭がんの手術代を稼ぐためK-1 JAPANで総合格闘技に挑戦。アレクセイ・イグナショフと闘い1ラウンドKO負け。7月に来日した際、自身が咽頭がんにかかっていることを公表。声帯を全摘出する手術を行った。
2009年
5月、I.W.A.JAPAN15周年記念興行に来日。秋に咽頭がんが再発。10月に予定されていた引退記念試合は延期となる。12月29日にデンバーの聖アンソニー・セントラル病院で死去(49歳)。
得意技
デンジャラス・バックドロップ:高角度で脳天から落とすバックドロップ。
ドクター・ボム:俵返しの要領で持ち上げた相手の頭を開脚ジャンプしながら足の間に落下させ、そのままフォールを奪う変形パワーボム。
オクラホマ・スタンピード:ボディスラムの要領で相手をうつぶせ状態で担ぎ上げ、自分の体を浴びせながら相手を背面からマットに叩きつける。アバランシュホールドとも(全日時代のウィリアムスはコーナーの対角線上を往復して相手の背中をコーナーポストへぶつけてから技を決めるターンバック式を使用し、どことなくユーモラスな雰囲気を醸し出していた)。