概要
日本のプロレスラー。
全日本プロレス社長、プロレスリング・ノア社長(初代)を務めた。
二代目タイガーマスクでもある。
ずば抜けた才能を持ちながら決して奢らず、自ら率先してヲタキャラ、エロ親父っぷりを披露してファンとの距離を縮めようと努力した人でもあった。
略歴
生まれて間もなく夕張炭鉱は閉山同然となり、一家で埼玉県越谷市へ転居した。
1975年、中学校へ進学し器械体操部に入部。テレビでジャイアント馬場率いる全日本プロレスの中継を見てファンになる。一刻も早く入門したかったが、担任からは「アマレスの経験を積んだ方が良い」と説得された。
1978年、埼玉県にはレスリング部が強い高校がなかったため、栃木県の足利工業大学附属高等学校にスポーツ特待生として進学。
1979年、全日本プロレスの事務所を訪れ入門を志願したが、ジャンボ鶴田から「高校を卒業してから来なさい。俺は大学を卒業してからプロレス入りしたんだから決して遅くはない」と諭された。
1981年、高校を卒業し、全日本プロレスに入門。当初から受け身を覚えるのが早く、将来を嘱望された。新人時代はジャンボ鶴田の付き人を務めた。
1984年、越中詩郎とともにメキシコへ遠征。しかし数ヶ月後、三沢にだけ帰国命令が出て、日本に帰ると馬場から二代目タイガーマスクになる事を命じられた(メキシコに取り残された越中は翌年、全日本を離脱し新日本プロレスに入る)。
1985年10月、ヘビー級に転向。三沢は初代タイガーマスクの空中技を受け継ぐ必要に迫られ自分の持ち味が出せない事に苦しんでおり、それを打開するためだった。
1990年、天龍源一郎がSWSへ移籍し、多数のプロレスラーが天龍に追随したため全日本は崩壊の危機に陥った。
5月14日、三沢は試合中にマスクを脱いで素顔になる。この日からリングネームも本名の三沢光晴に戻し、天龍の去った全日本の屋台骨を支えていく決意を示した。川田利明、小橋健太らと共に超世代軍を結成し、高い人気を得た。
1992年7月、ジャンボ鶴田がB型肝炎で長期休養となり、三沢が実質的なエースとなる。
1999年、ジャイアント馬場が死去。三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任するが、未亡人となった元子夫人が現場に口を挟んできて対立することになる。社長になった結果、経営に関する不透明な部分を目にし、全日本に対する不信感がつのる。
2000年5月28日、全日本プロレスの臨時取締役会において三沢が社長を解任された。
5月13日、三沢が取締役退任を申し出、全日本を退団。
5月16日、記者会見で新団体の設立を宣言。三沢は飲食店でもやりながら小規模なインディーズ団体を主宰するつもりだったが、同調する者が続出しスタッフも含めて50人近くが追随した。
7月4日、新団体の名称が「プロレスリング・ノア」に決定。
ノア旗揚げ後、三沢は社長業に忙殺されて思うように練習が出来ず、視神経や脳神経にダメージが及ぶなど長年の激戦で体はボロボロだったが、1度も試合を欠場することはなかった。
2007年、プロレス大賞MVPに当時史上最年長(45歳)で選出された。
2009年6月13日、広島でのGHCタッグ選手権(三沢、潮崎豪×斉藤彰俊、バイソン・スミス)の試合中、斉藤のバックドロップを食らう際、受け身に失敗する事故で死去。享年46歳。
最強説
2004年、ノアのジュニア戦線で奮闘していた元GHCヘビー級王者の杉浦貴がPRIDEで60億分の1を決めると言われたPRIDE GPベスト8のジャイアント・シルバを総合格闘技で秒殺した。つまりノアの頂点に君臨する三沢はミルコもノゲイラもヒョードルをも超越し最強(?)。
※ジャイアント・シルバの戦績は8試合で2勝。勝った相手も戦闘竜に曙としょっぱい。
三沢はPRIDEでIQレスラーこと桜庭和志を破ったヴァンダレイ・シウバと「戦ってみたい」と語っていた。
人物
酒場が大好きで毎度夜中まで飲んでいたせいか、脂肪がつきすぎそれが死を早める原因となった。晩年は特に腹が突き出、地方では6人タッグ、技もエルボー限定といったスタイルを酷評されていた。
これは酒好きゆえの体重増加のみならず長年の酷使によって満身創痍の状態で試合だけではなく社長としての営業活動も行っており、心身ともに疲弊しきっていたことによる。周囲からも休場を勧められていたが、「年に一度地元にやってくるノアの興行で三沢がいないのは、プロレスのテレビ放送が充実してた時代のファンにとっては残酷なことだ」と無理を押して出場していたという。
札幌に行った時は、必ずススキノに遊びに行くのを楽しみにしていた。
スキューバダイビングを好み、年に1度は必ずハワイに行ってダイビングを行っていた。
ジャンボ鶴田が引退後にアメリカの大学へスポーツ生理学の教授待遇として赴任することになった際、既に鶴田と全日の間に距離があって見送りに行きたくても行きづらい雰囲気となっていたが、その空気を振り切って成田空港まで見送りに訪れた。その際鶴田から
「もし何かあったらすぐに言って来いよ。俺はミチャワくんの味方なんだから。それだけは忘れないでくれよ」
と告げられたという。しかし鶴田はB型肝炎が肝臓癌へと悪化し、海外での脳死肝臓移植に一縷の望みを賭け、ようやくドナーの見つかったフィリピンで移植手術を受けるも手術中の大量出血によりこの世を去ってしまった。
オタク関係に造詣が深かった。
特にヒーローものが大好きで、カラオケに行くと子供時代大好きだったマイナー特撮ヒーローの主題歌を歌うものの、誰も知らないので一緒にいった人間を少々困らせたていたという。なお「全日本プロレス中継」が選手のリクエストで番組のエンディングテーマを決めていた時、他の選手が一般曲を選ぶなか、三沢だけは新造人間キャシャーンのOPをリクエストしていた。
また、ホビー専門誌で特撮ヒーローの人形収集の趣味がある事を明かしていた。実際に三沢の部屋を訪れた徳光正行はヒーローもののグッズで溢れていたことを証言しており、全日社長時に日テレの「素顔がイイねっ!」で自宅を公開した際には、子供の大きなポケモンの人形のほか、かなり希少なファイナルファンタジーⅦグッズやその他のコレクションが乱雑に並べられていた。何人かの若手の「遠征中、ドライブインに寄るたびに三沢社長にガシャポンをやりにいかされる」との証言も残されている。
さらに、相当な漫画好きでも知られている。単行本はあまり買わず、雑誌連載で追いかけるのを好み、「少年誌から青年誌まで、ほとんど全てを自分で買っていた」という。もっとも、元付け人の丸藤正道によれば「三沢社長の付け人として最初に覚えることは、雑誌の発売日を覚えること」だという。
好きな作品として『1・2の三四郎』を挙げ、「プロレスの練習風景を、ここまでリアルに描いた作品は他にないね」と高く評価していた。
ゲームに関しては、メディアワークス刊「電撃スパロボ」にてスーパーロボット大戦シリーズのファンであることを語っていた。さらに、錦糸町や晴海のゲームセンターで、クイズマジックアカデミーをプレイしている姿をたびたび目撃されていた。
もっとも、本人は「オタク」であることを頑なに否定していた。
葬儀の際には三沢が好きだったヒーローものの曲が多く流された。
その他、学園もののテレビドラマや、映画ではジャッキー・チェンやトム・ハンクス主演の作品を好んだ。
エロ社長
三沢光晴を語る上で無視できないのは、やはりバラエティ番組などでの下ネタトークである。その下ネタ好きぶりから「エロ社長」の異名をとり、プロレス雑誌の読者投稿欄では三沢の下ネタに関する投稿が定番になっていたほどである。
師匠であるジャイアント馬場から「プロレスラーは余計なことを喋らずプロレスをやれ」と言い聞かされていたため、全日時代はTV出演も少なく、カメラの前では寡黙な雰囲気すら漂わせていたが、馬場が死に社長に就任すると徐々に下ネタトークを自重しなくなっていく。例えば
- 「(小橋と組んで負けた試合の感想を問われ)小橋には先にイッちゃってごめんね、という気持ちです」
- 「俺おっぱい星人じゃないから」
- 「ぴこぴこぴーん(男性のシンボルが元気になった時の三沢独特の擬音表現)」
- 「(他団体の)プロレスのビデオ見るくらいならアダルトビデオ見たほうがいいよ」
- 「志賀(賢太郎)、お前は(男性のシンボルが)デカい!」
等々。大学の学園祭でトークショーを行うことも多かったが、その際も「ちんぐり返しは恥ずかしくて無理」「おっぱいは手のひらサイズがベスト」等の発言を連発していた。
「エロ社長」のニックネームを定着させたのは「踊る!さんま御殿」出演時のこと。同番組は下ネタ御法度であったはずが結局大ウケし、 「今週の踊るヒット賞」を獲得、飯島愛から「爽やかな下ネタ」と評された。
本人は下ネタについて「みんな共通の話題で話しやすい雰囲気が作れるから積極的に振っていく」といった趣旨の発言をしており、実際三沢の下ネタは受けが良く、それを楽しみにするファンも多かった。一方で「(寡黙で真面目な)イメージが崩れる」等の批判が上がっていたのも事実であり、ノアの仲田龍渉外部長からは「バラエティ番組出演禁止令」が出されてしまっていた。
関連タグ
格闘界の「ヲタ?」
マット界の「エロ社長」
ザ・グレート・サスケ(みちのくプロレス) 石川雄規(格闘探偵団バトラーツ)
武藤敬司もう一人の「天才」。奇しくも1962年生まれの同級生で、社長レスラー繫がり。同時期に所属団体のライバル団体でエースとなった。その後、相まみえるも、タッグを組んだこともある。