ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

目次 [非表示]

プロフィール編集

本名 同じ 
誕生日 1957年11月27日
出身地 山口県下関市
身長 164cm
体重 90kg(全盛時)- 115kg

概要編集

新日本プロレス所属時代、初代『タイガーマスク』として、一大ブームを巻き起こした。

その後、『ザ・タイガー』『スーパータイガー』『タイガーキング』などのリングネームを使用。

総合格闘技の元祖とされる団体・シューティング(現:修斗)の創設者。現在は武道団体・掣圏真陰流興義館総監を務め、武道家、思想家としても活動している。


人物編集

基本的には物腰柔らかく丁寧な口調で笑顔を絶やさない。一方で礼儀がなってない不躾に接してくる者には特に怒ると鬼のように豹変する。


また、大の甘党で羊羹一本をポッキー感覚でムシャムシャ食べる、赤福をヘラで一列一気にこそいで食べるといった豪快なエピソードを持つ程。


現在、新日本プロレスに所属する四代目タイガーマスクは彼の直弟子である。



来歴編集

中学生時代に沢村忠の影響で格闘技を志し、レスリングや柔道を始める。


身長が172cm、体重が72kgになってから1975年7月に新日本プロレスに入門。

アントニオ猪木からは最初「あんなちっこいの」呼ばわりされたが、その練習熱心さから次第に猪木も佐山を認めるようなる。

1976年5月28日に魁勝司戦でデビュー。入門2年目からは猪木の付き人にもなった。


1977年11月14日に行われた梶原一騎主催の「格闘技大戦争」で、全米プロ空手ミドル級第一位のマーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用・統一ルールの下で対戦、屈辱の6R判定負け。

1978年、キャリア2年でメキシコ・EMLLに派遣、「サトル・サヤマ」のリングネームで活動。

同団体ではNWA世界ミドル級王座を獲得し、一時期所属したUWAではグラン浜田とのタッグでも活躍した。

その後フロリダのカール・ゴッチ道場を経由して1980年にはイギリスへ渡りブルース・リーの従弟こと「サミー・リー」のリングネームで東洋武術を彷彿とさせるスタイルのプロレスラーとして大活躍。

その後新日本プロレスから「タイガーマスクの映画を撮るので、帰国して欲しい」という連絡を受け、帰国。

1981年4月23日、蔵前国技館におけるダイナマイト・キッド戦で「タイガーマスク」としてデビュー。(この時期テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、メディアミックス展開もしていた。コスチュームもアニメから反映された。)

新日本プロレス伝統のストロングスタイルをベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレ(メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜたスタイルは、実況の古館伊知郎に「四次元プロレス」「四次元殺法」と形容され、大人気を呼んだ。

1982年は、1月1日に王座決定戦でダイナマイト・キッドを破りWWFジュニアヘビー級王座を獲得。

5月25日にはレス・ソントンからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取し、WWFとNWAのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。

代表的な好敵手としてはダイナマイト・キッドをはじめ、ブレット・ハート、ブラック・タイガー(正体はイギリス時代のライバルだったマーク・ロコ)、スティーブ・ライト、ピート・ロバーツ、小林邦昭など。

特に小林は1982年10月26日の大阪府立体育館での対戦を初めに何度もマスクを破られたり、剥ぎ取られそうになった。その後『虎ハンター』として完全にブレイクする。(実際には両者は仲が良かった)


人気絶頂の最中、1983年5月に漫画『タイガーマスク』の原作者である梶原一騎が講談社編集者への暴行容疑で逮捕、またタイガー人気で得られた収益が猪木の個人事業へ流用されるなどのトラブルから8月10日に新日本プロレスに対して契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言した。


同時期、自身のジム「タイガージム」を設立。『ザ・タイガー』として、ほぼ同時期に新日本プロレスを退団した山崎一夫をインストラクター兼スパーリングパートナーに迎え、新格闘技と称して新しいスポーツを模索する。(後にいったん閉鎖、「スーパータイガージム」として再出発。)

1984年7月23日、24日にUWFの「無限大記念日」興行に約1年振りの現役復帰。

UWF正式入団時にタイガージムが商標登録しているザ・タイガーの名称が使えなかった為『スーパータイガー』と改名、紫×銀のマスク+コスチュームに一新。

しかし藤原喜明との試合でがぶられて(上からホールドされること。レスリングでよく使われる言葉)スタミナを失い、アームロックから逃れられずに腕を脱臼したことからで素顔にて試合をするようになる。


リング上では前田日明、藤原、高田伸彦木戸修、山崎らとの日本人対決を軸に壮絶な試合を行ない「UWFはプロレスではなくシューティング」自分達を「シューター」と称した。

公式ルールの制定にも着手するが、方向性の違いから対立するようになり、1985年9月2日の大阪府立臨海スポーツセンターで行われた試合で、前田からセメントが仕掛けられ、10月11日にUWF脱退を表明。団体も活動休止に追い込まれる。


脱退後、スーパータイガージムでの指導をベースとした競技としての格闘技「シューティング(現・修斗)」の普及活動に励み、協会設立やプロ化を実現。


1994年5月1日、当時新日本プロレスの取締役だった永島勝司に要請され、10年ぶりの新日本登場。

翌年、初代タイガーマスクに名を戻して本格的にプロレスに復帰し、UWFインターナショナル、みちのくプロレス、東京プロレス、SAプロレス等に参戦。

1996年には修斗の運営から身を引き、1997年には『タイガーキング』に改名し、新日本東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦。

1998年、アントニオ猪木が創設したUFOに猪木事務所取締役の肩書きで参加するが方向性の違いで翌年4月に離脱。

その年の5月に掣圏真陰流設立、再びプロレスから離れるが、2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、『ザ・マスク・オブ・タイガー』の名でまたも復帰。

2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。

2011年1月10日に藤波辰爾長州力と共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を後楽園ホールで旗揚げ。

2015年3月20日の後楽園ホール大会での曙戦後に心臓の痛みを訴え、安静するもよくならず5月に手術。最終的には原因不明の「狭心症」と診断。


2016年6月のリアルジャパンプロレスの大会にてミノワマンを相手に、新たに佐山自身が立ち上げた武道「須麻比(すまひ)」のデモンストレーションマッチとして復帰戦を行うが完全な復活は明言していない。


外部リンク編集

佐山サトルオフィシャルサイト 掣圏真陰流 bushido.jp

初代タイガーマスク 佐山サトルのブログ

関連記事

親記事

プロレスラーの一覧 ぷろれすらーのいちらん

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 16123

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました